1-9.皇帝覚醒・9


 イフリアのおだやかな風が、今日も皇帝執務室に流れ込んでくる。
 イグダリオ帝は年嵩ない皇子の真剣な表情に(おや)と目を見開き、口にした言葉に仰天した。度重なる経験から、この突拍子のない病弱な息子の言動には慣れたつもりでいたが、まったくこれには驚いた。

「父上、お許しをいただきに参りました」
「なるほど」
 イグダリオは、澄んだ青の瞳を細めてただ上下に頭を動かした。
「よかろう」
 首肯する皇帝の顔が、ゆるみかけるルディオンの小柄な姿を捉えて、意味深にふかく微笑んだ。
「ただし――ルディオン」
「……はい、父上」
「それを許可するには、それ相応の責任が付きまとうぞ。解かっておろう?」
 ルディオンは神妙に口を横に引き、頷いた。
「解かっています」
「そうか。ならば、いい」
 遠く彼方を眺めて、イグダリオは視線を成長期にある少年に戻すと「フッ」と安堵の息をつく。
(ようやく、か。……私も、そろそろこの椅子に座るのは疲れていた)
 ルディオンの決断が、イグダリオの長い呪縛を解放しようとしていた。
 それが分かって、老体となった胸が高揚する。
 若き日に戻るように。

 「昔」と呼ぶには色あざやかで。
 「思い出」と呼ぶには辛すぎる過去。
 あまりに長く居すぎた場所は、イグダリオ帝にとって重く苦い想いを塞〔せ〕き止める鎖だった。
 だからこそ。
 鎖がなくなれば、話すことができる。
 すべてを――。

 それが何より、嬉しい。

「おまえのことだ。――心配はしていないが、身体は鍛えたほうがいいかもしれんな」
 ゆったりと笑いながら言う皇帝に、ルディオンはムッと目を吊り上げる。
 しかし、その表情が妙に優しかったので口をつぐんだ。
 低く唸る。
「……そうします。今日も療養中の身なので、すぐにアルが呼びに来ると思うのですが」
「そうか」
 ふかく笑みを刻んで、イグダリオはその時を待った。

「――ルディオン」
 ほどなく来た護衛騎士に退室を促された皇子の背に、イグダリオが言った。
 逆光になった部屋で、年老いた皇帝の顔は翳〔かげ〕っている。
 ふり返った若き皇子が見たのは、威風に澄んだ青の瞳。
 よく知る、父の眼差しだった。
 強い。
 そして、どこまでも優しい皇帝の青。
「あとは、おまえに任せる」
「 父上? 」
 不思議そうに眺めるルディオンに、イグダリオはくすりと笑ってみせた。
「愛しい姫との 結婚 のために「皇帝」になるとは、なかなか 豪儀 だぞ。我が息子よ」
「 ッ! 」
 次の瞬間、次期皇帝としては「少しばかり」乱暴な扉を閉める音が轟〔とどろ〕いた。

 一人、執務室に残された父皇帝はくすくすと笑いながら、最後の仕事に執りかかろうとしていた。



 執務室の扉を勢いよく叩き閉めたルディオン皇子は、謁見室を抜けたところでぼそりと言った。
「言うな」
 口数の少ない黒騎士を、真っ赤な顔で睨み上げる。
「エディエルには、言うなよ! アル」
「………」
「僕が死んでも言うな」
 アルディはどう、答えたものか困惑する。
「それは――命令ですか? ルディ様」
 本当に言いたいことは口にせず、ただ確認する。
「そうだっ! 絶対だぞっ。アル!」
「御意に」
 剣に誓いをたてながら、途方に暮れる。
 結果として、ルディオンとエディエルの双方から口止めをされてしまったアルディは、何とも複雑な立場に追い込まれているのを感じた。


*** ***


「ルディオン!」

 自室に戻ったルディオンは、扉の前に仁王立ちになっている姫に気づいて呻〔うめ〕いた。
 その横には、正装をほどこしたリュースベル公爵がゆったりと背を壁に立てかけて、事の成り行きを見守るかのように眺めている。
「どこ、行ってたの! まだ、外出禁止のはずじゃない?」
「あ。う……ちょっと野暮用で」
 睨〔ね〕めつけられて、しどろもどろで答える皇子に、黒騎士は同情して事実だけを口にした。
「姫。ルディ様は皇帝陛下に会われていたのです」
「アル……」
 言うな、とばかりに目線を上げてくる皇子に、静かにアルディは続けた。
 やはり、コレも事実だった。
「帝位継承の件で、話があったようで」
「え?」
 怪訝な表情でエディエルは目をしばたかせると、まだ身長が同じくらいの少年皇子に穴が開くほどの凝視を返した。
「それって、つまり――」
「イグダリオ帝が退位される……ということだな」
 ワケ知り顔で頷くザスランは、呟くと「失敬」と口をつぐんだ。
 他国の継承話に軽い口をきくものではない、と自省したらしい。ただし、本心は別のところにあったようだが。
 見透かされていると感じたルディオンは、不快そうに口を曲げて頷いた。
「否定はしない。事実だからな」
「 嘘! 」
 まるで、信じられないとエディエルはルディオンに迫り、額が触れるほど近くで見た。
 ギョッ、とあどけなさの残る澄んだ青の瞳が開く。
「まさか、受けたの?」
「え? うん」
「なんで?!」
「なんでって――そんなに僕が皇帝になったら、おかしいのか?」
 ここまで力いっぱい訊かれるとルディオンも心外だった。確かに、「皇帝」になるには自分は頼りないかもしれないが。
 コツン、とエディエルの額がルディオンのそれに当たる。
 間近に映る若々しい若葉の瞳は、答えを探るように彼を覗いた。
「だって、妙じゃない。あなた、そういうのすっごく苦手でしょう?」
「………」
 少年の顔がわずかに強張った。しかし、それだけでポツリと呟く。
「いいんだ」
 と。

( 変だわ )
 エディエルは、病弱な彼を凝視して首を傾げた。
 皇帝になれば、嫌でもすべてから束縛される。
 今以上に、行動範囲を制限されてしまうのは自明ことだし、「籠の鳥」から「鎖付き」になるようなモノ――いくらルディオンでもそれくらいは解かっているはずだ。
 なのに。
(それをあっさり「受ける」だなんて……)
「何かあった? アル」
「ダメだ」
 エディエルが護衛騎士に疑問を投げた時、ルディオンが制した。

 浅い吐息をつき、アルディは肩をすくめた。
(どうして、この方はすぐに墓穴を掘られるのか……)
 姫のもっともな追求に、激しい応酬を始めた少年主を眺めながらそんなことを思った。



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