1-4.皇帝覚醒・4


 青い空に自由な雲がぽっかりと浮かんでは、視界から見えない場所へと移動していく。
 開け放たれた大窓からは、時折心地よいほどの強い風が吹き込んできた。
 それは、黒騎士の鈍い銅の髪を靡〔なび〕かせ、(本人、かなり不本意な)療養中の儚げな金髪を揺らした。
 寝台に上体を起こしたルディオンは、睨みをきかせて物静かな彼……アルディの青い目を見据えた。

「アル」
「駄目です 」
 つけいる隙もなく、彼は答える。
 そして、窓を閉めた。
「まだ、熱が残ってるのをお忘れですか、ルディ様」
「……うるさいな」
 低く、口にしてルディオンは俯〔うつむ〕き、悔しそうに窓の外を盗み見た。
 幼い頃から、見慣れた光景だ――すぐそこに、動く世界があるのに自分はそこに入ることができない。
 窓の白い格子が、籠の中にいるような気分にさせる。
 いつも。

 眺めていた。

 ようやく、自分の足で誰に咎〔とが〕められることもなく走れるようになったかと思えば、体力のない身体は少しのことで悲鳴を上げて寝台へと運ばれる。
 キッ、と顔を上げると、ルディオンは諭すように自分に注がれている青の眼差しに容赦なく立ち向かった。
「ガリアゲイドもアルも、細かいんだよ。ぼくだって、昔と同じじゃない――少しは認めてくれたっていいじゃないか」
 彼の護衛騎士は、はぁと息をつくと少し頭をおさえて言った。
「認めるもなにも……「貴方」がバルコニーに出て何もしないと誰が思うんですか? 誰が」
 前科を考えてください、とばかりにアルディは、若い主を一瞥した。
 脱走の常習犯である病弱皇子に、「信用」という言葉はない。あるのは、「厳戒」と「非情」……身から出た錆〔さび〕とは言え、ルディオンへの扱いは非模範的囚人のソレに近い。
「どうせ、また何か企んでいるんでしょう?」

「 ぎくっ 」

 鋭い言葉に、大きく身をすくめた線の細い少年は滑稽〔こっけい〕なほど分かりやすい反応をした。
「な、なんで……そう思うのさ?」
「勘です 」
 キッパリ、と言い切った人の良さそうな護衛騎士の微笑に、ルディオンは「いー」と歯をむき出して嫌な顔をした。


*** ***


 澄んだ青の瞳は、ガラスに映る晴れ渡った空を眺め――その窓に触れるとニヤリと笑った。
 キィ、と窓を引き開けると、音もなくバルコニーへと滑り出る。
 彼の生真面目な護衛騎士は、今は回診に来た白鬢〔はくびん〕の主治医を送って部屋から出ていた。わずかではあるが、一人となったこの機会〔チャンス〕を「病弱皇子」と名高いイフリア帝国の次期皇帝が黙って見逃すだろうか? (いや、断じてない。強い反語)
(よしよし)
 ルディオンは、バルコニーの一角にそびえ立つ見慣れた木の枝に手をかけて……ビクリ、と背をすくめた。

 カン!

 と。剣の交じわる音が聞こえたからだ。
( え? )
 普段、騎士棟から離れたこの場所で聞くことのない剣の鋭い音に、中庭を見渡す。
 目を瞠〔みは〕ると、ルディオンは反射的に影へと身を隠した。
 朱色の騎士服に、細身の剣を操るのは、彼女しかいない。
(……え、ディエル)
 先日よりも格段に太刀筋の鋭くなった身のこなしに、思わず見惚〔みと〕れ……相手をしているのが騎士公だと気づくのに数秒かかった。
 長身の騎士公から繰り出される剣は力強く、歯切れのいい音を奏でる。
 ルディオンはみるみる顔を強張らせると、その光景から目を背けた。
(どうして――)
 どうして、彼女はあんなに……。
 コソコソと木の枝に手をかけ、バルコニーの縁〔へり〕に足を乗せたルディオンは唇を噛んだ。
「ちぇっ」

「あーっ!」

「うえっ?!」
 バッ、と枝を掴んだ格好でルディオンは固まり、眼下――中庭の向こうから駆け寄って来るエディエルに顔を引きつらせた。
「ルディオン! 何してるのっ」
「え……だから、ここで外の空気でも吸おうかと」
 バルコニーから足を乗り出して、この言い訳は流石〔さすが〕に苦しい。まだ、空を飛ぶと言った方がマシだったかもしれない。
 今更、後悔しても遅いが。
 目をアッチコッチに泳がせて、病弱皇子は必死に考えた。
 そして、あっと体勢を崩す。
「 危ないっ 」
「とわっ!」
 枝を掴んでいた手が離れ、もともと不安定だった上体が空中へと投げ出される。
「――っ!」
「ルディオン!!」

 エディエルの悲痛な叫びを耳にしてルディオンは、よく知る腕に身体が支えられていることに気づいた。
 ある意味、落ちるよりも悪い状況だと思う。
 ゆっくりと瞑〔つむ〕った目を開けると、黒い篭手が目に入り首を巡らせる。
「――アル」
 バルコニーから吊り下げられるように抱きかかえられたルディオンは、華奢な身体を情けなく垂らして息を吐いた。
「離せ」
 ピクリ、と片眉を上げてアルディは、少年皇子を見た。
 そして、いつもの口調で答える。
「落ちますよ」
「いいから。いま、無性に落ちたい気分なんだ。ぼくは……分かるだろ?」
「……はあ、まあ」
 あまりに素直な、そのへその曲げ方に思わずアルディは笑ってしまった。
 まさか本当に皇子を落とすわけにもいかないので、バルコニーへと引き上げる。
 恨めしげに眼下を睨むルディオンに、映るのは二つの影。

 年下の身体の、すこぶる弱い婚約者が引き上げられたことを確認するとエディエルは、つめいてた息を吐く。
 この時、騎士公の深緑の瞳は澄んだ少年の青の瞳を離さずに見据えていた。
 赤銅のクセのない髪がハラリ、と前に垂れる。
「エディエル」
「ザス……」
 肩に廻されたその腕に驚いて、エディエルは思わず無防備に顔を上げてしまった。
 昔馴染みの相手、という甘え。
 不意をつかれた後悔は、思考を止めた。

 それぞれの思惑が生み出した恐ろしいほどの、静寂――唯一の救いは、そのキスが頬だった、ということだけだった。



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