0-4.イベント前夜


 金髪に、よく澄んだ青い瞳。
 見るからに細い線の青年は、近頃とある悩み事に頭をかかえていた。

 休みのない仕事。
 それもある。
 プライベートさえも自由ではない。
 それもある。
 人生最大のイベント。
 それもそれも大いに悩むべきところだ。
 しかして、彼の最大にして一番の弱みは彼女だった。

 十七歳という年齢の彼には、七つ年上の彼女がいる。彼女は長い茶色の髪に若葉色の瞳をしている。
 二十歳の頃から始めた剣術は、現在ではかなりの腕前で宮廷騎士団の幹部クラスであっても、彼女と対等に戦えるのはほんの一握りである。
 とはいえ、騎士団の面々と彼女が剣術を競い合うことは、現実的な可能性を考慮するとあんまりない。
 本来、彼女はそういう剣術を体得するような身分の女性ではないのだ。
 彼女いわく。
「バカね。あなた一人を危険にさらすなんてこと、できるわけないじゃないの」
 と、カラリ一笑。
 何とも、男として情けない言葉だ。
 この決意を耳にした時の、彼の気持ちなどはそうそう口にできるものではない。
 はっきりと「ダメだ」と言ってやりたい心情、半分。
 彼女らしいと妙に納得してしまった気持ち半分。
 これだから、好きなんだなあと惚れ直してしまったのは、やはり男として少々不甲斐なかったかもしれなかった。

 で、現在。
 彼の悩みの根源というのは、やはり 彼女 だった。
 しかし、その「剣術」云々〔うんぬん〕が原因ではない。勿論、それがまったく遺恨〔いこん〕なく解消しているとは言いがたかったが……とにかく、今の悩みはもっと……そう、本能との葛藤だった。
 昔は、自分よりも大きな存在だった彼女。
 実質的な背丈を越してからは、かなり久しくなったが、それでも彼にとって彼女は強い存在だった。事実、剣術を抜かしても、彼が彼女に体力面で勝てる自信はない。
 なのに。
 最近……不可解な錯覚にとらわれる。
 キスをして、抱き寄せると……彼女の身体は思いがけずふよふよしてやわらかい。
 力を加えれば、簡単に壊れそうな(そんなことはないと頭では分かっているのだが)、まるで小さな少女ように映る。
 彼の名前を呼ぶ。
 少し、伏せ目がちに顔を上げ、声をたてて笑う。
 無防備に頬を寄せてくる。
 凶暴な気分になる。
 力任せに支配したい欲望……決して、泣かせたくないと祈りながら、じつは強烈に望んでいる彼女の涙。
 青年は、自室の椅子にあぐらを組み、仏頂面で忌ま忌ましくため息をついた。

「 ああ! くそっ 」
 激情のまま、目前の机を下から蹴り上げる。皮のブーツを履いた足の先が鈍い痛みを残した。
 彼の悩みは尽きない。
 人生最大のイベントまで、あと一カ月。



 長い茶色の髪を臙脂〔えんじ〕の紐〔ひも〕で結い上げた女剣士は、クルクルと器用に愛剣を振り回して思い悩んでいた。
 気性、悩むよりも動くタイプの彼女がウジウジと悩むことといえば……彼のことしかない。
 年下の彼。
 病弱な器とは対照的な、溌溂〔はつらつ〕とした思想の持ち主。それは、出会ったころと少しも変わらず、むしろ体力的に鍛〔きた〕えられた分放散する機会がふえている。
 その彼。
 最近、妙に不自然だ。
 勿論、例のイベントのせいなのかもしれないが。
 それにしても、気になる。
 以前から、彼女が彼の護衛剣士におさまっていることを良しとしなかったが、最近は小言さえいわない。
 物言いたそうに見つめはするものの、何も言わずに笑うのだ。

「妙だ」

 と、感じるのはそんな時。
 全然、彼らしくない。
『まだ、子どもだと思っているだろう?』
 いつもの彼ならそう言って、眉をあからさまにしかめ彼女を諫〔いさ〕めようと必死になるのに……。
 諫めようとしないのは、なぜ?
 胸が騒ぐ。
 剣士のカン、というか……身に迫る危機に反応する感覚が「危険」と赤く点滅しているような気がする。
 むざむざ、彼の意思に従う気はないが(それだけの度胸と覚悟はあるし)、それでも、彼をあんなふうに悩ますのであれば、剣を捨てなければならないかもしれない。
 彼を守る方法なら、剣士以外にもあるはずだ。
 ただ、

「 これが一番、性に合っていると思ったんだけどなあ 」
 至極、残念そうに呟いて、青いあおい空を見上げた。
 巨翼の黒い鳥が一羽、弧を描いて飛んでいる。この国の空はいつも高く澄んでいる。
 彼の治めるこの国の名を、イフリアと言う。


*** ***


 イフリア帝国、王宮の一室で本日はめでたく衣装合わせ……なんの衣装合わせかっていうと、そりゃあ現皇帝、ルディオン・エトル・ゼス・イフリアとその婚約者、エディエル・トゥ・シルレントの婚儀の衣装合わせだ。
 じつのところ、この婚儀はとある事情で一年以上延期されていた。
 とある事情……とは。
 それは、あれやこれやと当人達の意思や、周囲の思惑とは裏腹なまったくの不運。
 しかし、前皇帝の突然の崩御ともなれば、致し方ないであろう。そんな理由で喪に服していた一年間は婚儀など執り行なえる状況ではなかった。

「 姫さま 」
 予想外の情景に侍女頭ルーンは、うっとりとため息をついた。
 まさか、あの姫さまが。
 白いベールをかぶり、顔の上半分を隠した花嫁は、純白を基調としたドレスでしっとりと佇〔たたず〕んでいる。
 長い豊かな大地を彷彿〔ほうふつ〕とさせる髪が、ゆるりとふくよかな胸の上に落ち、イフリアの青い国花をアレンジしたブーケを持つ腕の終わりまで純白のレースが彼女の肌を薄くかくしていた。
「まるで、本当の 花嫁 のようです。姫さま」
 侍女の言葉に、花嫁は唇の端をおかしそうに上げた。

「なあに、ルーン?」

 ベールの向こうから、緑の瞳が背の高い侍女を見上げた。
「おまえは、何かを期待しているようね」
「い、いえ。そんな!」
 これまでのエディエルの諸行を回顧〔かいこ〕して、ルーンは青くなる。
「ドレスの下に剣士のパンツをはいて帯剣したり、馬に飛び乗って神殿まで乗り込んでいったりした姫さまが、まさかこんなまともな花嫁姿をなさるなんて、わたしは嬉しくてうれしくて……あ、涙が。ホラ」
 見てくださいとばかりに、自分の瞳へと指を指す。
 世話役兼教育係の侍女の黒い瞳には、確かに光る何かが見えた。
 呆れた花嫁は、あらためて自らの衣装を見下ろした。
 ついでに、背後にある姿見用の大鏡に半身をねじって眺めてみる。

「そんなに大層な格好かしら? これなら……」
 剣士の格好の方がよっぽど実用的で格好いい……と、口先にまで出そうになってエディエルは口をつぐんだ。
 鏡の奥には、退屈そうに座り込んでいる若き皇帝が映っている。
 彼もまた、花婿らしい豪奢な衣装に辟易〔へきえき〕としているようだった。その証拠に、一番のトレードマークとなるだろう毛皮のマントを早々に黒騎士へと預けているではないか。
「 ルディオン? 」
 ふと、声に反応して青年は顔をあげた。

「 うえ! 」

 顔を上げると、鼻先にベールをかぶった見慣れた女の顔。
 心の準備ができていなかった分、驚嘆の声が大きくなった。
「びっくりした!」
 目をまるまると見開いて、すぐそばの唇が動いた。
 それはこっちの台詞〔せりふ〕だ、といいたいのをグッとこらえてルディオンは平静を保つ。
 立ち上がって、訊く。
「 何? 」

「何って、何?」
 不可思議そうに首をひねって、エディエルが訊きかえした。
 ズズイと顔を近づけるので、さらにルディオンは困惑する。
「なんか用があるのかってことに決まってるだろ。声をかけたのはエディエルじゃないか」
 じーっとルディオンを観察していたエディエルは、渋面をつくり腕を組む。
「そりゃあね。あるわよ、当然じゃないの」
「だから、何?」
「妙だと思わない? アル。絶対、何か隠してるとわたしは思うんだけど」
「 ……… 」
 そばに立ち尽くしていた黒騎士に、エディエルは話をふる。
 黒騎士は鈍い銅色の髪から澄んだ青い瞳を困ったように細めた。
 そして、一言。
「 それは、あると思いますが。人間なのですから」
「余計なことは言うな、アル」
 ルディオンが剣呑に、黒騎士を牽制〔けんせい〕した。
 この長い付き合いの黒騎士には、何度となく相談をしているのだ。他人の口から伝わるくらいなら、自分で言うほうがどんなにかマシだろう。
「べつに、隠しているわけじゃないんだ」
「そ」
 ジトリとした眼差しでルディオンを見、エディエルはぽそりと言った。
「本当は分かってるのよ」

「 ぬえ?! 」

 ルディオンは動揺した。
(分かってるって、どこまで!?)
「わたし、ルディオンを悩ませたくて剣を習ったわけじゃないんだし」
「は?」
「だから、ルディオンがダメだって言うんだったら、いいのよ」
「……はあ?」
「剣をやめても」
「………」
「 姫さま! 」
 傍観を努めていた侍女ルーンが、思わず嬌声〔きょうせい〕をあげた。
「よ、ようやく。そんなお気持ちに!」
 じゃじゃ馬姫として育った主を感慨深く眺め、次に彼女に劇的な変化をもたらした皇帝へと顔を向けると、嬉々と言った。
「陛下! さあ、早く。やめろとおっしゃってください! さあ!」
 ルーンの反応が激しかったおかげで、ルディオンの静かすぎる変化は誰の目にも止まらなかった。
 絶句。そして、さまざまな気持ちが彼の中で交錯〔こうさく〕した。
「……そりゃあ、やめてもらいたいさ。ずーっと言ってるじゃないか」
「ですよ、そうですよ!」
 勢いづいて相槌をうつ侍女だったが、次の瞬間、止まった。
「でも、違うんだ。……ぜんぜん」
 これとは……と、ルディオンは言いよどむ。

 それは、そうだ。すんなりと言えるはずがない、こんなこと。
「やめてもらいたいのは……そういう格好とか」
 エディエルの純白の花嫁衣装をさす。
「え? コレ? 何の問題もないでしょう? 全然」
 胸のあたりが少し大きくあいた以外は、とルディオンは心中心穏やかではない。
 彼女を見下ろすと、はからずもその谷間を覗〔のぞ〕く羽目に陥るのだから。
「とか。さっきの顔を近づけるのとか……とにかく、困るんだ、私が」
 顔をあさっての方向に向けて、若き皇帝は声だけは平静を装った。
 しかし。
「…どういうこと? もっと、はっきり言ってちょうだい」
 彼の年上の花嫁に、そんな誤魔化〔ごまか〕しが通用するはずもなく、追求はさらに有無を言わさぬ語調へと変化する。

 いや。
 語調だけなら、まだ良かったのだ。
「 じゃないと 」
 じゃじゃ馬姫は眉間に皺をきざんだかと思うと、ルディオンの腕を力任せに引き寄せる。
 ピタリと密着する。
「もっと近づいちゃうから!」
「〜〜〜〜ッ」
 それは、まるで恋人同士がいちゃついているようにしか映らない光景である。
 腕を強行に捕られ、否が応にも彼女を間近で直視した。
 身体ではなく……胸の奥深くが熱くなる。
 ダメだ。平静でいられない。
「 だーぁぁっ、 だから! 困るんだ! そういうのッ。目のやり場に困るんだから……!」
 絶叫に近い、青年の声。
 ふらっと足もとがぐらついたかと思うと、目の前が白くなる。
 久方ぶりの、感覚だ。
「る、ルディオン?!」
「大丈夫です、姫……ただの知恵熱ですから」
(ああッ、アル。なんだソレ? くっそ! バカにしやがって)
 落ちていく意識の中で、ルディオンは忌ま忌ましく黒騎士の一言をなじった。



「ん……」
 白くぼやけた視界から、しだいに見慣れた寝台の天蓋がはっきりと映し出された。
 生まれてから幾度となく繰り返された光景だ。
「 ちぇ 」
 幼い頃からの癖で、舌打ちをしてしまう。成長しないな……と、自嘲的にルディオンは息を吐いた。
 と。
「 ルディオンのバカ! 」
 寝台に横になる皇帝を、さらに深く寝台へと押しつける腕。
 なぜか純白の花嫁衣装のまま、エディエルは力任せに虚弱体質の彼を組み伏した。
「な……」
 逆らいたいのに、ルディオンには彼女の馬鹿力に対抗するだけの能力がなかった。情けないことに。
 ジタバタと苦し紛れに手足を動かしてあらがってみるが、見事に彼女はびくともしない。
「バカ……」
 一言、小さく呟いたかと思うと、あとは雪崩のように。

「ばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかぁ!」

 さすがにここまで息継ぎナシで叫ぶと、息切れしてエディエルははあはあと肩を上下させた。
 押さえこまれ、滝のようななじりを受けた当人は、度肝〔どぎも〕ぬかれて半〔なか〕ば放心状態で訊く。
「な、にが?」
 キッと睨むと、エディエルは恥ずかしげもなく、言い切った。

「押し倒して!」

 現段階で押し倒されているルディオンは、言葉の意味を理解する前に呆気〔あっけ〕にとられた。
「キスして! 身体中に!」
 一国の。まがりなりにも姫君が、口にする言葉ではない。はっきりいって。

「……赤い」

「当然よ。恥ずかしいじゃないのっ」
 語気荒く断言するエディエルは、まさに真っ赤。
 ぶっと吹き出すと、くくくと若き皇帝は笑った。
「ごめん」
 そっぽを向く年上の凛々しい女の横顔に、ルディオンは心底嬉しそうに微笑んだ。
 チロリと横目で確認したエディエルは、くすりと笑う。
「まあ、ルディオンらしいといえばルディオンらしいから、許すわ」
 でも、とエディエルは悪戯〔いたずら〕っぽく向き直る。
「これで、私の剣の話はナシよ」
「なんで!?」
 反射的にがばりと半身を浮かせた若き皇帝に、エディエルはさも当然とばかりに制した。
「だってやっぱり、放っておけないわ、あなたって」

「 ! 」

 衝撃。
(これは……男として間違ったんじゃないか?)
 ルディオンは言葉を失って、ただただウキウキと愛剣を撫でつける姫を見る。
 今、彼の心境を音で示せといわれたらコレしかないだろう。

 ゴォーン。


*** ***


 王宮の個室とは別の棟〔むね〕にあたる皇帝の執務室の椅子で、哀愁を漂わせたルディオンは訊〔たず〕ねた。
「アル、これは墓穴というのか?」
 黄昏〔たそがれ〕を背にたたずむ、黒騎士は澄んだ青の瞳を静かに伏せた。
「それは……」
 言いよどみ、困ったようにつなげた。
「正直に申し上げればよいのでしょうか、それとも歯に衣をきせて申……」
「アアッ! もういい!」
 自分で訊いておきながら、血相を変えて立ち上がり若き皇帝は彼の言葉を遮〔さえぎ〕った。
「そうだ! これは完全な 墓穴 だ。 失態 だ。男の だッ!」
 何もそこまでという言葉を連発して、ルディオンは荒々しく再び椅子に腰を下ろす。
 どうやら自分の言葉に心底、傷ついたらしい。
 しばらく黙っている。

 深いため息とともに、口を開いたのは傷心の皇帝。
「……まあ、仕方ない。ああでないとエディエルじゃないんだから」
 無器用に笑う。
「そうですね、彼女の剣の素質は並ではありませんし」
 何を隠そう、彼女に剣技の手解きをしたのはこの黒騎士である。
「このまま手放すには、彼女の腕はもったいな……あ、いえ」
 ジットリとした眼差しに気づき、言葉を濁〔にご〕す。
 ふん、といい気のしないあからさまな仏頂面で、ルディオンは言った。

「ようやく明日か……」
「はい」
「 長かったな 」
 感慨深く、頬杖をつきルディオンは呟いた。

 ――明日、「妃公示」の儀式が執り行なわれる。



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