その日は、穏やかな一日だった。途中まで――。
営業企画部のあたりでキャーキャーと騒がしい子ども達の声が、離れた廊下の中ほどまで聞こえていた。
(そういえば、もうすぐ大きなショーがあるとか言っていたな)
里宮秋人〔さとみや あきひと〕は、友人から聞いた営業企画部の子供服部門と婦人服部門、それに紳士服部門の共同で行うというファッション・ショーが近くあることを思い出した。
今日は、そのサイズ合わせか何かなのだろう。
と、騒がしい声のする方へと歩いていくと、一人の女の子が窓の向こうの穏やかな空をじっと眺めている。
小学校の低学年くらいだろうか? しかし、この年代の子どもは成長の度合いも様々だ。あるいは、もう少し上の学年かもしれない。
ふわふわとしたクセのある髪が、どこか子猫を思わせた。
「 あ! 」
秋人がそんなことを考えていると、視線に気づいたのか少女は顔を彼に向けて固まる。
もともと体が大きく、目つきの鋭い秋人はとことん子ども受けがよくない。小さな赤ん坊に泣かれるのは当たり前。小学生くらいになれば泣かれることは少ないが、怯えられることは多かった。
その女の子も怒られるとでも思ったのか、慌てた様子で踵を返そうとして……何もないところで、バランスを崩したから咄嗟に手を伸ばす。
「きゃー!」
カシャン
と、眼鏡が飛んで床に落ちる。悲鳴を上げた小さな女の子の体を支えた腕は、ホッと息をついて抱きしめた。
「痛いところは……ない?」
立たせて、一通り目視しながら確かめると、こくこくと頷く。
「そう。走ったら危ないから、気をつけてね」
「は、はい」
エヘ、と笑った顔はあどけなくてやっぱり小学校低学年くらいに秋人には見えた。
「ひなたー、神楽見日向〔かぐらみ ひなた〕!」
「あ! 蒼馬〔そうま〕くん」
跪いた秋人から、女の子を挟んだ向こう側から男の子がやってきて、その声に彼女がおっとりとふり返る。
「蒼馬くん、じゃねぇよ……なに、やってんの?」
手を差し出す少年に、少女は慌てて頷いて秋人を見上げた。
ゴソゴソ、とスカートのポケットの中を探っていた小さな手が、秋人に差し出されにこり、と笑う。
「おじさん、ありがとう」
「いえいえ」
手の中に転がった、可愛いお礼――包装紙の両側を絞ったリボンのようなキャンディの包みに、口元がほころぶ。
シッカリした少年が、少女の手を引いて……なんとなく、秋人は 睨まれた ような気がした。
*** ***
(そういえば、「おじさん」って言われたんだよなあ)
と、思い出した。
まだ、そんな年齢ではないと思いたいが……あれくらいの子どもから見れば 十分に 今の自分は「おじさん」なのだろう。
『 里宮さんのこと、優しくって頼りがいのある人なんだなって思いました。あの時の眼鏡は大丈夫でしたか? 』
それを、茅野繭子〔ちの まゆこ〕に見られていたとは気づかなかった。
「よく子どもには逃げられてしまうので、嬉しかったのです。眼鏡は大丈夫でした……頑丈なタイプのものなので」
でも、ちょっと値がはります……などと続きを書こうとしたところで、パタンと閉じる。
「ちっ!」
舌打ちをされる、覚えはない。忍び足でやってきた鴇田聡史〔ときた さとし〕から日記を遠ざけ、秋人はイヤーな顔をひとつ、した。
ニヤニヤとした昔馴染みの友人は、「なんだなんだ?」と付きまとう。
彼女と交換日記をはじめたことを、この経験豊富な男には話していない。当たり前のことだ。話せば、からかわれるのは火を見るより明らかで、馬鹿にされると知っている。
(やはり、社員食堂で書くべきではなかったか?)
今となっては、遅い後悔で秋人は嘆息する。
「コソコソして、何やってるんだ?」
「べつに……」
と、威嚇して足掻〔あが〕いてはみるが、長い付き合いの相手には まったく 効果がなかった。
「ははあ!」
すべてを聞き出した聡史は鍵をシッカリとかけて開かないようにした それ を手に、「なかなかやるねえ?」と感服したとばかりに食堂の椅子に座る秋人を見下ろした。
「茅野、繭子さんだっけ? コレ、に応じるなんてなかなか おまえ を理解してるじゃないか」
対して、向かいに腰を落ち着けると聡史は「面白い」と何が 面白い のかサッパリだが、ひとしきり彼女に対して興味を示していた。
確かに、茅野繭子は秋人よりも秋人のことを理解している……と思うことがよくある。
けれど。
「受付の新人と言えば、可愛い子がいたような? くりくりの髪をした小柄な子かな?」
なんで、ドンピシャなんだ? さては、目をつけていたか……。
「あ、図星?」
だから、なんで俺の表情〔かお〕まで読むんだよ、とムッと秋人は唇をきつく結んだ。
「戻る」
一言で席を立つと、自分でもよく分からない胸のモヤモヤが目の前の友人を「敵」だとみなしていた。
金輪際、こいつと 口 なんかきくもんか!
*** ***
そう。
本当に その日 は、穏やかな一日だったのだ。途中まで――。
時間を見て一階のエントランス・フロアまで足を伸ばした秋人は、しかし不可解なことにその足を止めることをしなかった。手の中の書類の見えないところに手渡すつもりの交換日記が握られていたにも関わらず、だ。
外来の客らしい、男性に笑顔で対応するのは受付嬢として当然の仕事だ。彼女がその仕事を 完璧に こなしているのは、きっと、とても喜ばしいこと。
なのに。
目が合って、口を開いたら……自分はとても酷い言葉で彼女を傷つける。
そう、気づいたら足を止めること……目を合わせることさえ、出来なかった。
(ごめん、茅野さん。今日の俺は――変だ)
君が。
ほかの 誰か に笑いかけるなら、笑えなくなればいい。
そんな、悪いことを 普通に 考えてしまいそうだった。
昼に聡史に感じた胸のモヤモヤを、繭子にぶつければ簡単な気がした。
彼女は何も、悪くないのに。
( 明日に、しよう )
手にしていた交換日記を握りしめて、秋人はハァと自己嫌悪の息をついた。
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