外は、しっとりと宵闇に沈もうとしていた。
朱美は、カーテンをめくって藍色の空を眺めた。 毛糸のセーターに芥子色のロングスカートという元の格好に戻った彼女からは、かすかに石鹸の匂いがする。頬のあたりで切りそろえられた黒髪は、まだ半乾きの状態で濡れていた。 「――はい」 「え……?!」 突然の頭上の衝撃と、降ってきたモノに朱美は身をすくめ……彼女らしい反射神経で、その降ってきたモノを受け止めた。 それは、透明な瓶だった。 正面には、うっすらと名前らしい文字が刻まれている。
『 騎士 −Knight− 』 「朱美が、知りたがってたヤツ」 菫もまた元の服装に戻って……しかし、やはり同じ石鹸の匂いと濡れそぼった髪をわしわしとタオルで拭きながら朱美の後ろに立っている。 朱美の隣になると、宵闇を眺めてから彼女を見た。 色素の薄い髪は濡れて、乱暴に拭いたせいかひどく乱れている。なのに、その奥の瞳は静かでどこまでも澄んでキレイだった。 「今日、ホワイト・デーだろ?」 「うん……えっ?!」 素直に頷いてから、朱美は動揺した。 「――って、菫さん。どういうコト?」 にこり、と笑うと菫は「そういうコト」と、答えになってるんだか、全然なってないんだか分からない言葉を返した。 「……朱美にと、思ってさ」 「あ、ありがと。――…あれ?」 頬を染めてふわりと笑うと、朱美は首をかしげた。 「菫さん、コレって……もしかして、メンズ?」 「うん。みたいだね……つけててよ。僕とおんなじ香りだし」 スイッ、と朱美の耳の裏に口づけると、彼女の手から瓶を取った。 そのキスしたところに香水をつける。 ふわり、と優しく漂うのは「菖蒲〔しょうぶ〕」のさわやかな香り。 ぷっ、と朱美がふきだした。 「なんか、エッチね。こういうの……」 「なんで?」 「こんなに傍〔そば〕で菫さんの匂いがすると、発情しそう」 くふくふと笑いながら、上目遣いで夫を見る。 「それはそれは」 さも慇懃〔いんぎん〕に微笑むと、菫は彼女の耳元に口をつけて囁いた。 「じゃ、今夜は頑張ろっか?」
と。背筋の性感帯に何気に触れられ、朱美の身体はビクンと震えた。
*** ***
キッチンで、夕食の支度をしながら朱美が思い出したように言った。 「菫さん、菫さん」 リビングのソファで、読みかけの雑誌をふたたび黙読していた菫は顔を上げずに訊き返す。 「何?」 「わたし、菫さんからホワイト・デーのお返しもらったのハジメテかも!」 嬉々として言う妻に、菫がしれっと答えた。 「? 毎年、あげてるけど?」 「嘘っ?! そんなの知らないっ!!」 「去年は、朱美……食器洗い機がほしいって言ってたから買っただろ?」 朱美は、がしゃんと食器を落としそうになると、キッチンから飛び出してきた。 「待って待って待って! アレ がそうなの?!」 「うん」 こくり、と頷く夫に、妻は愕然〔がくぜん〕とする。十数年の年月が、一気に巻き戻されて一つ一つを明確に示していく。
(冷蔵庫に、TVゲーム……そういえば、「花見がしたい」とか言った時もあったような?) まさか、それがホワイト・デーの お返し だったとは……。 「菫さん、分かりにくいじゃないさっ!」 悔しくて、思わず朱美は喧嘩腰に叫んだ。 「そう?」 小首をかしげて、菫はおっとりと顔を上げた。 「今年は、朱美がほしいものないって言ったから困ったんだ」 「え? えー!? でも、最初のホワイト・デーは本当に何ももらってないよ? わたし、覚えてるし」 「うん!」と力説する朱美に、菫は「あげたよ」とこともなげに言い切ってみせる。 「なに? わたし、なんかもらった?!」 「 アレ 」 「ただいまー」 と。リビングの扉を開けて、入ってきたのは小学三年生の彼らの息子。 入るなり、物静かな父親に指を差された蒼馬は固まり「なにが?」と、首をかしげた。 「――ホラ、子どもが欲しいって言っただろ?」 にじり寄った妻の耳元に唇を寄せて、菫は低く笑って囁いた。
ホワイト・デーの午後。5 <・・・ 6(終) ・・・> あとがき。
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