大学の講義・レッスン日程連絡用掲示板の左横に位置するよろず掲示板――いわゆる部活動やサークル活動の宣伝掲示板なのだけれども……そこに立って、先ほど渡された夏期休暇の間の課題曲が入った楽譜ケースを握りしめて、小夜原なつきは呟いた。
「なによ、コレは」
カザバナ宴会部の強化合宿参加者募集のハンドメイドなポスター。もちろん、「強化合宿」自体はいいことだと思うし、いい刺激にもなると思うのだけれど。
でも、――強制参加のくだりはいただけない。
「やっほ♪」
ぽん、と背後から肩を叩かれて、なつきは一言文句を言ってやろうと身構えた。
彼女が、ふざけたポスターの 製作者 だということはふり返らなくてもすぐに分かったし、こんなタイミングで声をかけてくるのは当然、 強化合宿 への打診にちがいなかった。
「 鈴柄さん 」
ふわふわと、毛先を跳ねさせてわざと乱雑にくくった髪が頬のあたりで風に揺れている。
愛嬌のある笑顔をつくった鈴柄愛は、手をグーパーと動かして挑むように言った。
「小夜さんも、参加ね。もちろん」
小夜さんって誰よ? と顔をしかめながら、なつきは息をつく。
「行くわけないでしょ?」
「どうして?」
まったく予想していなかったとばかり目をパチクリと瞬〔またた〕いて、愛はなつきを覗きこむ。
「強制なんて、聞いてないし」
「だって、言ってないし――」
屈託なく言い切ってみせると、愛はなつきに思いっきり睨まれた。
「なによー、べつに悪い話じゃないでしょ?」
「だからって、いい話とも思えないわ」
そんななつきの消極的な態度に、くすりと笑って愛は誘った。
「まあ、そう言わず参加してよ。泊まりだから――千住くんも強制参加だから、ね?」
〜 ハンガリア舞曲1 〜
心を見透かされている気がして、なつきは目を逸らした。
それは、確かに悪い話じゃなかった。
なつきにとっては、これ以上ないほどの誘惑。
貴水〔かれ〕を誘いだすには、脅迫に近い……これくらいの強制力がいる。そんなことは昔から、高校時代の最初から百も承知だ。「泊まり」ともなれば、なおさら容易に「うん」とは頷かないだろう。
(二人っきりの旅行なんて、絶対に取り合ってくれないし……、それなら「合宿」という形式はいい口上かもしれないけど……)
愛の手の内に乗るのは不本意だった。
しかし、結局負ける。このふざけた彼女との賭けに――。
なつきは「わかったわよ」と深いため息とともに愛を睨んで「 卑怯者 」と呟いた。
「なんとでも」
こっちは体裁を気にしている場合じゃないのよね、とにっこりと愛は笑って、その事実を肯定した。
*** ***
混迷を極めるアルペジオ。
左右の指がまったくちがうリズムを刻みながら……しだいに重なるメロディ。
ピアノに向かいながら、入学試験の時のことを思い出して思考はさらに混濁する。
(どうして、あの時――手を抜くことができなかったのか)
答えは彼のすぐそばにあるけれど、手に取ることはできなかった。
彼女が大事だ。
それは、とても。
何よりも一番に守りたいと思うほどに、大事だ。
( なのに、どうして )
僕は。
傷つけてしまうとわかっているのに、どうして……君を手放すことができないんだろう?
こんなにも大事だと思っているのに。
君は、――闇の中に射しこむ、光。
自ら入った闇の袋小路に出ることが叶わない、哀れな自分に射しこむ……ただ、一条の光。
久方ぶりに目にする光は眩しすぎて、強すぎて――あまりに 残酷 だ。
彼女に暴かれる、不安。
( 君は、まだ知らない。 )
電気もつけない部屋の中で、迷走するピアノの旋律が心をあらわにしていく。
身勝手な、それでいて純粋で繊細な音色が彼の傷を苛んだ。
「やまー!」
と、鈴柄愛が叫ぶ。
カザバナ宴会部が企画した夏合宿の舞台は確かに山で、避暑地として有名な高原だった。
夏、の鬱蒼とした暑さとは違い、ひんやりと爽やかな風が通り過ぎていく。
宿泊場所となる建物を見上げて、やんややんやと参加者のみんなが歓声を上げた。
豪邸、という名前がふさわしいそれを、こともなげに用意する彼がなつきへと上品な微笑みを浮かべて言った。
「どうですか、姫」
と、うやうやしく日間八尋はなつきの手をとって指先にキスをしようとした。
「どうって、ビックリしたわ」
八尋の唇から手を引くと、なつきは何事もなかったように答えて、くすりと笑う。
「わたしは「姫」ではないけど、あなたは本当に「王子様」だったようね? 日間くん」
「姫のように気高いのだから、「姫」でしょう? 俺の親が金持ちなのは認めるけどね」
なつきの牽制にも軽く笑って、八尋はおどけてみせる。
すこし離れたところにいる、なつきの彼に視線を向けて戻す。
「音楽にお金は関係ないけど、あると助かるのも事実だから感謝してる。こういう企画もできるしね」
「そうね、いいわよね……こういう環境、憧れちゃう」
めずらしく弾んだ声をあげたなつきの視線の先に、円形状の講堂が見えて八尋は「ああ」と相槌をうって首をかしげた。
「小夜原さんはどうしてピアノを始めたの?」
と。
講堂から、なつきはごく普通に八尋を見上げた。
「母がピアノ教室の先生をしてるから」
ごく普通の答えを聞いて、八尋はそれがあまりに普通すぎて彼女には似合わないように思えた。
彼女には、もっと――。
「だから、わたしも母のようなピアノの先生になりたいなあ……とか思ってる」
「 え?! 」
さらに、似合わない言葉を聞いて八尋は思わずうろたえた。
「小夜原さん、それ……本気?」
彼のそのうろたえ方に、なつきは予想していたとばかりに頷いて、
「うん。よく驚かれるんだけどね、本当なのよ」
「……驚くよ、そりゃ」
風花音楽大学に入学した時点で、才能があるのは明白で……しかも、その中でもなつきの技能はトップクラスにあった。プロを目指すのが当たり前で、それがピアノの先生だのと甘えた夢を語るとは思えなかった。
なつきは、絶句する八尋を通り過ぎて「それに」と口にする。
「 ほかに、弾かなきゃいけない人はいると思うから 」
その先に、千住貴水が鈴柄愛に腕をとられて押し切られそうになっているのを見つけて、途端に表情を強張らせた。
「あーあ、優柔不断な彼〔アレ〕で 本当に いいの? 小夜原さん」
気づいた八尋がおかしがって訊くと、むっとなつきの唇が不機嫌に引かれた。
確かに、はっきりと断らないのは優柔不断かもしれない。けれど、それは貴水が優しいからであって、不誠実からくるものではないのだ。
何より。
本当はこの合宿の参加自体も躊躇〔ためら〕っていた彼を、「自分が」参加することを脅迫材料に無理矢理参加させたのは他ならぬなつきだった。
「あのね、日間くん……誤解があるようだから言うんだけど、わたしは 千住くんが いいの。だから、優柔不断だとか、そんなのは関係ないのよ?」
わかる? と首をかしげて、なつきは恋する眼差しで綺麗に微笑んだ。
( 参った )
颯爽と貴水の方へと駆け寄っていく彼女の背中を眺めて、日間八尋はまったく理解できなかった。
どうして、彼女ほどのピアニストが 千住貴水〔ヤツ〕 に固執するのか――。
良くも悪くも貴水は、あの奇抜な容姿以外は目立たない、存在感のない人物だ。
醜悪な肌の傷を覆う白い包帯と、深い闇の瞳はそれだけで人の注目を浴びるというのに、最初に受ける印象ほどは脳裏に存在が残らない。
「――少なくとも、二人が獲りあうような相手ではないと思うんだけどな」
なつきと愛の間に挟まれる貴水の困惑を見て、その心象は強くなる。
八尋は、貴水のピアノを聴いたことはなかったが、ピアノ科の連中の話では「可」もなく「不可」もなくといったじつに曖昧な評価が多かった。
もちろん、鵜呑みにするワケではなかったが……。
「 一度、けしかけてみる価値はあるか 」
と、貴公子然とした微笑をたたえて、企むように口にした。
to be...
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