――あなたなんて、何も知らないくせに。
ギュッと握りしめそうになったそれを、鈴柄愛は何とかこらえて眺めた。
ずっとそうしてきたようにその中の彼は、おだやかに笑っていて中心にいて、光の中がとてもよく似合うと思う。
長い間持ち歩いたせいでよれてきてはいるものの、大事に扱われているのだろう保存状態はすこぶるいい昔の写真。
「キャー! 何見てるの? 愛」
そう甲高い声をあげて話しかけてきた瀬戸芽衣子〔せと めいこ〕は、愛の手からスルリとそれを取り上げて高く持ち上げた格好で見た。
「写真? あ、コレ愛でしょ? 可愛いじゃん――」
ふと、友人の目が一点に集中すると呟いた。
「ねえ、愛。この子、キレイじゃん。すごい……存在感」
「うん、すごかったよ。ピアノの腕も、教室じゃあ一番だったし」
彼女の指差す相手なんて見なくてもわかる。それくらいに、彼は本当に目立っていた。ファンだって多くて、同じ写真に写ろうとしてもなかなか難しかったくらいで――この一枚が、愛にとっては貴重なモノだった。
発表会の会場で、彼がやっぱり一番になって表彰された直後の教室の生徒たちによる集合写真。
中心には誇らしげに映る教室の先生とトロフィーを持った少年。
おだやかな微笑みと、深い闇の瞳の端正な顔は父親譲りだと評判だった。
「へえ、そうなんだ。今どうしてるのか気になるね。愛、知ってるの?」
〜 愛の挨拶 〜
「……知らないよ」
まさか、この少年の成長した姿が同じ大学の千住貴水だとは誰も思わないだろう。
彼は変わりすぎている――。
愛はうっとりと眺めている友人を見つめて嘆息すると、教室の窓から学内の中庭を見下ろした。そこには、見たくもない有名なカップルが一組次の講義のためか、それとも個々のレッスンのためか移動している最中らしかった。
ただでさえ彼は目立つ。
その全身に残る醜悪な傷を包帯で隠し素肌をほとんど見せない奇怪な姿、長く伸ばされた前髪に覗く闇の瞳。華奢な長身に陰鬱な雰囲気はまるで希薄で、世界を遮断しているようにも映る。
そして、さらに目立つ要因となっているのは彼女のせいだ。
長い黒髪と鮮明な容姿。大きな瞳と瑞々しい桃色の唇、それに透けるような肌はまさに美少女のそれだった。
小夜原なつきの寄り添う姿を見て、そしてそれを突き放さずに受け入れる千住貴水の姿を見て、愛は無性についてないと思う。
(ちぇっ)
小学生の頃、憧れていた彼を見つけた時は運命だと思った。
容姿は変わったが、その旋律は聞き誤〔あやま〕ることなどできない。
幼い頃は、別世界の住人すぎて話しかけることにも壁を感じていたけれど、今なら頑張れるのに。
幼すぎたあの頃とはちがう。
だって、この気持ちに気づいている――昔、彼がいなくなってから、実感した想いにもう後悔はしたくなかった。
けれど、そう思った彼にはすでに決まった彼女がいて、愛をはっきりと拒絶した。
「 君と小夜原さんはちがうから 」
と、なんて羨ましい言葉だろうなんて、聞いた時は驚くくらい冷静だった。
ここまで特別に想われることができたなら、それだけで幸せじゃない?
もう少し早く出会っていれば。
彼女よりも、早く再会していればそれは自分に向けられたかもしれない愛情。
願望かもしれない、でも「彼女」は彼の過去を まだ 知らない。
「あ。愛ぃ?」
芽衣子の手から写真を奪い返した愛は、それをパスケースにしまって笑って言った。
「だぁめだよ、コレはわたしの宝物なんだから。メーコにはやれないよ」
*** ***
胸が、ドキドキする――。
学内の端に位置するレッスン室の一室で、二人ははじめてのキスをするように唇を寄せていた。
「ん……」
それ以上のことも、経験しているのになつきは貴水の胸にそえた手を思わず握り締めた。
ただ、唇が触れているだけなのに……そこから、彼の熱が伝ってなつきの心を反応させる。
わずかに触れ合う唇は、なつきの上唇を持ち上げて顎を支えた彼の手によって開かれる。
半ば、されるがままだったなつきは何も起こらないことに不満を抱いて目をあける。
貴水の顔を見る前に抱き寄せられて、彼の胸に押しつけられた。
「………いいって言ってるのに」
恨みがましく口にして、なつきは頬をすり寄せた。
「小夜原さん、僕たちは――」
「 友達よ 」
躊躇〔ためら〕う貴水に、なつきがハッキリと求められた答えをこたえて昏い闇の瞳をまっすぐに見上げた。長く伸ばされた前髪の向こうから覗くそれは、困惑を隠せないとばかりに焦点をさまよわせて……結局、彼女のところに戻る。
にっこりと笑ったなつきは、言い聞かせるかのようにゆっくりと繰り返して、彼の瞳に鮮明に映る。
「友達よ。だけど、友達同士だってキスくらいするわ。深いキスもエッチだって、しちゃいけないなんてことある?」
「いや、それは――どうかな?」
困惑したまま、貴水は苦笑いを浮かべて、当然のようにとんでもない論理を組み立ててくるなつきをもてあました。
「それとも、千住くんはわたしとキスするの、いや? 気持ち悪い?」
「それって、……ずるい聞き方だよ、小夜原さん。……困る」
「答えて、千住くん」
ずるくてもいいから。
答える代わりに彼の唇が落ちてきて、なつきは心の中で毒づいた。
( なによ。千住くんだって ずるい じゃない )
とは言え、貴水からのキスという甘いお菓子は簡単になつきの思考を酔わせてしまうから、すぐに怒りを忘れてしまった。
恋人でもない。
友達でもない。
今はそれでもいい……と、なつきは貴水にしがみついて、この期におよんでまだたじろぐ彼を許さなかった。
それから。
あっという間に前期日程が終わって、いくつかの課題曲が学生たちの手元に残り、それらを消化するには短すぎる長い夏季休暇がやってくる。
講義室の明かりを落とそうとした芽衣子は、まだ机に向かってカリカリと何かを書いている愛に首を傾げて訊いた。
「あいー? もう消すよ。何書いてるのさ」
「もうちょっとー、……よし、上出来っしょ?」
ぴらり、と愛が掲げたのは何かのチラシのような一枚の紙。
そこに彼女の手書きで、『来たれ、夏の高原へ! みんなで強化合宿実施しませんか? 主催、カザバナ宴会部』と元気な字体で書かれていた。
夜の7時とは言え、夏も近い空はまだ少し明るい。
電気を落とした教室で友人は、「よしよし」と一人嬉しそうな愛に近づいて眉をしかめた。
「なに、コレ」
「日間くん主催の、泊まりこみ宴会の招待状。メーコももちろんメンバーに入れてるからね」
「……それは、いいけど。こんなこと勝手に決めちゃっていいワケ? ほら、ココ」
トントン、と指で一箇所を指す。
『 親睦会参加者は、強制参加だよ♪ イェイ 』
可愛い絵柄の上にデカデカと主張されたその文句に、芽衣子の不安がよぎる。
「もちろん、だってコレが重要なんだもん」
大切にその紙をカバンになおすと、愛は立ち上がって夕闇の中で挑むようにニッカシと笑った。
fin.
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