Moonlight Piano #7


〜風花音楽大学一回期・前期日常〜
 ♯6 <・・・ #7 ・・・> ♯8



 講義の合間、いつものように顔を突きだした四十万恵〔しじま めぐみ〕が、なつきに向かって訊いてきた。
 何度目かの問いに、いい加減なつきはうんざりとして息をつく。

「だから、何もないってば」

「ウソ。いつも一緒だった二人が別々の席にいるなんて変よ。しかも、この三日口だってきいてないでしょ? 何があったの……すっごく気になるじゃない」
「……何も。何もないから離れてるの、おかしい?」
 ぱちくり、と目を瞬いた黒髪のボブスタイルの恵は「ははあ」と意味深なしたり顔をして身を引いた。
 耳に、髪をかけるとなつきへと静かに言う。
「早く、仲直りしなさいね」
「なんで、そんなこと……四十万さんに関係ないじゃない」
 なつきとて貴水と仲直りしたいのは山々だが、それを他人からとやかく言われるいわれはない。思わず、八つ当たりのような口調になって睨む。
「んー、そうなんだけどね。わたしも当人同士の問題だと思うし口出しするのはでしゃばりだって分かってるんだけど……なんだか、あなたたち二人って絵になるのよ」

「はあ?」

「つまりね、二人がいてしっくりくるっていうか。お似合い? って感じなの。分かる?」
 だから、離れているとこっちがヤキモキしちゃうんだ……と、おせっかいもいいトコロなことを、悪びれもせずになつきへと告白する。
 なつきは恵のそんな身勝手な自分本位な感想をぽかんと聞いて、次にくすりと笑った。
「「美女と野獣」なんじゃなかったの?」
「そうなのよねー、妙なんだけど見慣れちゃったせいかしら?」
 あくまで飾らない赤裸々な恵の言葉は、なんとなく落ちこんでいたなつきの心をふわりと持ち上げてくれた。
「そっか。千住くんとわたしってお似合いなんだ」
「あ。元気になった? 小夜原さんはやっぱりそうでないとね……華がないわ。千住くんもあなたがいないとさらに影が薄いし。元気ない感じ」

「……本当に?」
 貴水の気持ちに関しては……なつきは、ほとんど脅迫のような手段でしか試したことがなかったので、まったく自信がもてずにいた。だから、恵のこの評価はとても嬉しかった。
 たとえ、四十万恵の主観的な感想だとしても――。
「あら、意外。知らなかったの? 彼、小夜原さんにはすっごく優しいのよ。ほかの人には冷たいんだから」
「――え? 千住くんは誰にでも優しいでしょ? 冷たくなんてしてない」
「そうね、表面的にはね……でも、本当に優しくしてるのは小夜原さんだけよ」
 強く否定するなつきをある面では認めて、恵はまるで見透かしたように首を傾げて、肩をすくめた。

「 だって彼、あなた以外は突き放しているもの 」



〜 プレリュード 〜


 焦って走るなつきの肩がぶつかって、相手の手から楽譜が飛んだ。

「うわっ!」

 と、大仰に叫んだ相手・日間八尋〔ひま やひろ〕はなつきだと知ってさらに大袈裟に散らかしたので一面楽譜だらけとなり、彼女は呆気にとられた。
 足元の楽譜を拾い上げる八尋は、にっこりと微笑むと訊いた。
 それは、ここ数日なつきがうんざりとするほど訊かれたことだった。
「千住と別れたんだって?」
「誰よ、そんな噂流してるの……別れてなんかないわ」
 とりあえず、なつきも拾うしかなかったので、足元の楽譜を拾い集めて八尋に渡すと、キッパリと否定した。
 もし、恵の言葉がなければできなかった答え――だと思うと、なつきは感謝するしかない。
 こうして何の躊躇いもなく、言い切れるのは彼女のおかげだから。
「わたしたちは、始まってもないんだから」
「……なんだ、つけ込むチャンスかと思ったんだけどなあ。遅かった?」
 楽譜を受け取った彼は、少しおどけて苦笑する。
「さあ? ……それより、日間くん。訊いていい?」

「何かな? 小夜原さん」

「鈴柄さんの居場所、知ってる?」
 なつきは、好戦的に微笑むとまっすぐに八尋を仰いだ。



 アンサンブル室の一室で、貴水は確かに鈴柄愛を突き放した。
「――君と小夜原さんはちがうから」
「なによ、それ? だって、付き合ってないって……じゃあ、アレはどういう意味なのっ!」
 愛はムキになって言い募った。
 その時、閉めきられた扉が開け放たれ長い黒髪の――二人のよく知るキレイな女学生が飛びこんできた。

「千住くん!」

 と。
 彼女・小夜原なつきは、貴水を呼ぶとそのまま彼へと抱きついた。
「さ、小夜原さん??」
 首にしがみつかれた貴水は動揺して、それでも彼女を引き離すことはできなかった。久方ぶりのなつきの声、まっすぐな眼差し、乱れた吐息がすぐそこにあって、彼の喉元を撫でる。
「千住くん、いい?」
 と、走りこんできたことで呼吸が浅くなったなつきが、貴水の耳元で途切れ途切れに訊く。
「え?」
「わたしが、千住くんのそばにいても……いい?」
 すぐそこにあるなつきの揺るがない眼差しが、貴水にすがって泣いていた。

「―――…ッ」

 瞬間。

「 ひゃ! 」
 なつきは、悲鳴を上げた。
 息もできないほどの力。
 それはまるで、「彼女」という存在を確かめるような強い抱擁だった。
 肩と背中を抱かれ、彼の腕の交差したところがさらに強く締まる。
「せ……千住く――」
 彼の肩に顔を押し付けられたなつきは、少し長めの貴水の髪に頬を埋めて苦しげに息を吐く。
 貴水もまた、喘ぐように低く息を吐いてなつきのうなじを撫でた。
 ゾクリ、と粟立つ肌。
 彼のどこに、こんな力があったのか――想像もできなかった。
 だって、いつも彼はとても優しいから。
 あの初めての夜でさえ、優しかった。
 なのに。
 こんなにも自分本位で、力まかせな貴水の腕ははじめてで、なつきはどうしたらいいのか分からなくなる。
「千住くん、痛い」
 何とか、それだけを口にしてなつきは貴水の腕の感触を感じる。
 肩から腕へ、背中から腰へ形を追うような動きに知らず、彼女の腕も呼応した。
 貴水の背中に廻した腕を、彼の首と肩に伸ばす。
 互いの服の衣擦れの音が、切なく聞こえて、

 ……これ以上ないほどに近づいた。

「 ごめん 」
 貴水が口にしたのは、やはり謝罪の言葉だったけれどなつきは黙って彼の肩に顔を埋めた。
 抱擁は優しくなって、先刻〔さっき〕までの激しさなどまるで 嘘 のようだった。
 なつきの長い黒髪を梳〔す〕く指を感じて、目を閉じる。
(何か、忘れている気がするんだけど……なんだったかな?)
 それは――今が幸せだから、とりあえず考えないことにして、なつきはこれからどうやって貴水を懐柔していこうか真剣に考えることにした。


*** ***


 後日。
 その、なつきが考えることを放棄した「忘れていた」存在が、仁王立ちで彼女の前に現れた。
 告白した目の前でラブ・シーンを見せつけられた鈴柄愛は、彼女の美点でもある愛嬌をなくして剣呑な口調で戦線布告した。
「小夜原さん、わたし、諦めたワケじゃないから」
 キッとなつきを睨む眼差しは、少し充血していて痛々しい。
「 だって、あなたは葉山くんのこと知らないんでしょ 」
 愛はあたかも勝ち誇ったように笑って……笑うしかなくて。
 ふい、となつきから顔をそむけると、「それだけ、言いたかったの」と立ち去った。


fin.


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