Moonlight Piano #5


〜風花音楽大学一回期・初見演奏〜
 ♯4 <・・・ #5 ・・・> ♯6



 名門、カザバナの器財は練習用とは言えやはり質がいいのだと、小夜原なつきは思った。
 大学で本格的に講義が始まった頃、新入生同士の親睦も兼ねて好きな曲を演奏する時間が設けられた。もちろん、時間的な余裕があまりないのでワンフレーズというごく短い披露会だったけれど。
 しかし、互いの力量を見るのには十分すぎる時間だ。
 音の出し方、指の運び、曲への解釈が如実にあらわれる。

 流れる清廉なメロディ。

 上手くない。だからといって下手なわけでもない……ぼんやりとどこか特徴のないつまんない音。



〜 トロイメライ 〜


 彼――千住貴水〔せんじゅ たかみ〕の高校時代からのピアノスタイルはここ「カザバナ」に来ても、変えるつもりはないらしい。
 彼の演奏を聴きながら、なつきはその姿を眺めてため息をついた。
( 絶対、引っぱたいてやる )
 長い黒髪と白い肌、澄んだイメージの可愛い顔立ちとは裏腹な、勇ましい決意をしつつ心の片隅では貴水の好きな曲をしっかりと記憶した。
「ねえ、小夜原さん。いい?」
「え?」
 ちょうど後ろの席から、しっとりとした静かな声がなつきに呼びかけたかと思うと、癖のない長くはない黒髪がさらりと目の前に下りてきた。
 身を乗り出した彼女は、にこりと笑うと首を傾げて訊く。
「あの人と付き合ってるって噂、本当?」
 単純に興味がある、とその眼差しはキラキラと輝いて面食らっているなつきへとさらに身を乗り出した。
「彼のどこが好きなの? あなたってとってもキレイなのに……だからすっごく目立つのよ?」
「はあ?」

( ――どこ? )

 なんの衒〔てら〕いもなく投げ出された問いに、なつきは答えかねた。
 貴水のピアニストとしての圧倒的な才能だろうか?
 確かに、彼の才能には憧れている……それは憎らしいほどに。
 でも、それだけなんだろうか?
 簡易舞台の真ん中でつまんない音を奏で続ける貴水を見つめて、なつきはなんとなく腹立たしくて切なくなった。

「 まるで、「美女と野獣」だってみんな言ってるわ 」

 四十万恵〔しじま めぐみ〕。
 のちにそう名乗った彼女の歯に衣を着せぬ率直な言葉が遠くに聞こえて、なつきはただ「そう」と相槌をうった。
 そんなふうに思われて、ヤキモキするのはきっと自分だけなのだと思うと、やるせなかった。貴水は本当にそういう自らの侮辱には無干渉で、当事者のくせにどこか冷めた反応をする。
 なつきと付き合っているのだって、その延長。否定だってしないし――肯定もしない。
 それが無性に悲しかった。


*** ***


 講義終了の鐘が鳴って学生たちが席を立つ中、なつきと貴水も次の講義への移動のために廊下へと出た時のことだった。

葉山くん!

 最初、誰を呼んでいるのか分からなかった。
 駆け寄ってきた女学生はそんな空気を察してか、もう一度呼ぶ。
「あなた、葉山くんでしょう? 天野の教室に通ってた……葉山貴水くん」
 少し息を呑むと、貴水は「ああ」と呻〔うめ〕くように口にした。彼自身、思い出すのに時間がかかったらしい。
 目を細めて、
「……きみは?」
 虚空へ泳がせる。
「確かに、昔、僕はそこには通ってたことがあるけど……」
「やっぱり?! そうだと思ったのよねっ。だって――あ、ごめんなさい。わたしも同じ教室で習ってたのよ。だから、あなたのこと知ってたの。ホラ、葉山くんは「天才」で有名だったもの」
 うっとりと昔を懐かしむ彼女は、貴水を仰ぐと愛しい人を見るように言った。
「さっきのピアノの音で分かったわ! わたし、すっごく憧れていたんだもの……でも」
 ふと、訝〔いぶか〕しむと彼女は首を傾げて訊く。至極、真面目に。

「――どうして、本気で弾かないの?」

「千住くん?」
 なつきは思わず、場を遮〔さえぎ〕って貴水を呼んだ。
 すると、彼女の方もようやくなつきの存在に気がついたらしく眉をひそめる。
 なつきからすれば、それはこっちがしたい……というくらいあからさまに失礼な態度だった。
「あなた、だれ? 葉山くんの何なの?」
(……だから、「 葉山 」ってだれよ。知らないわよ、そんな人)

「 千住くん 」

 と、静かになつきは顔を上げて、どうゆう顔なのか醜悪な痕を包帯で隠した男の目をとらえる。ほんの少し、貴水は身じろいで……肩をすくめた。
 まさか、二人の女性の間に挟まれる……なんて事態が、自分の身の上に降りかかろうとは考えもしなかったらしい。何に困惑すればいいのか、はかりかねて彼はしどろもどろで受け答える。
「あ。あのさ、とりあえず僕はもう「葉山」じゃないから……ええっと、きみは?」
「 鈴柄愛〔すずつか あい〕だよ 」
 ふわふわとした茶系の髪に、コロコロとよく動く目がにこりと笑ってようやく名前を口にした。
「そっか。もう「葉山」くんじゃないのか――だよね?」
「………」
 貴水がその昔の話題に触れたなくないのは明らかだった。
「じゃあ、鈴柄さん。僕らは次の講義があるから」
「……うん、そっか。あの、最後に訊いてい?」
 すでに歩き出そうとしていた貴水は、ふり返り首を傾げた。
「 その人、恋人? 」
 と、なつきを指して愛はほんの少し、すがるように貴水を見つめた。

 しばしの思案のあと――、
「……さあ、どうかな」
 貴水は、曖昧に言葉を濁した。



 なつきの平手をいつものようにくらって貴水は、頬をさすった。その横には、なつきがそれでも不機嫌そうに座っている。
 次の講義が始まるまでの教室のざわめきの中、平手に使った手をさすりながら隣の貴水を睨みあげると、意外にも彼はなつきをじっと見下ろしていて自然、目が合う。
「小夜原さん」
「なによ」
 本当は、刺々しくこんなことを言いたくなかったが、言わずにはおれなかった。
「千住くんにとって、わたしは友だち? それとも恋人?」

「――手、大丈夫?」

 と、サラリと貴水はなつきの問いを無視して、その手を気遣った。
「ピアニストの手なんだから、乱暴に使ったらダメだよ」
「ちょっ……なによ、千住くんのせいじゃない」
 いきなりごく普通に手を取られて、なつきはなじろうとして鼻じろんだ。
 まるで。
 なつきの手を宝のようにあつかって、彼のほっそりと長い指が触れる。
 そこだけが、唯一傷跡のないキレイな場所で……唯一、じかに彼の体温に触れることのできる場所だった。

「千住くんが、悪いのよ。指、冷たいじゃない」

 ぷっとなつきの支離滅裂な訴えに貴水はふきだして、彼女の細い手を包みこむ。
「そうだね」
 ゆっくりとマッサージをほどこされて、なつきは彼に懐柔されていくのを感じた。まだ、怒りはあるのに追求することができない。
 気になることは山ほどあるのに――鈴柄愛という存在で、さらに強くなる欲求。
 どうして貴水〔かれ〕の苗字が変わったのか……昔、貴水に何があったのか……ピア二ストとしての天賦の才能を持ちながら「絶望」と呼んで頑なに心を閉ざすのは、どうして?
 表情のほとんど読めない貴水の醜悪な素肌を隠した顔に、なつきはしばらく 何か を期待して待った。
「 ……… 」

 なんて、卑怯な手口だろう。

「もう――いいわよ」
 貴水をふり払い、なつきはぷいとそっぽを向いた。
( ずるいんだから )
 忌々しくて、なのにこんなことくらいで幸せになれる自分が確かにいるから、なつきは諦めるしかなかった。
 もちろん、今回は――という限定付きで。


fin.


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