Moonlight Piano #4-1


〜風花音楽大学一回期・入学式〜
 ♯3 <・・・ #4-1 ・・・> ♯4‐2



 春。

 彼の周りには誰もいなかった。
 遠く離れた場所からうかがうような視線と、ひそめられた話し声。
 黒髪の華奢な長身に、素肌のほとんどを包帯で隠した彼の存在を見れば、仕方ない反応のような気もする。
 彼自身、そのことにはむしろ慣れているので、しばらく満開の桜の樹とよく晴れた空をぼんやりと仰いでいた。
 立っていた彼の長く伸びた黒髪と白い包帯の裾が、突如吹いた風に翻〔ひるがえ〕って音もなくなびく。

「 千住くん! 」

 驚いた彼が目を向けるのと同時に、飛び込んだ小夜原なつきはそのまま抱きついて亀水東高校時代からの友人にしがみついた。
「おめでとう」
 と、彼女が言うと何とも言えない表情をして友人・千住貴水〔せんじゅ たかみ〕は返した。
「君も」
 正直な話、なつきはともかく彼はここ――風花音楽大学にいるハズではなかった。けれど、抱きつくなつきがにっこりと花のように笑うのを眺めて、貴水は先ほどまで不思議だった今の現状を思い直すことにした。
 自然と微笑むと、抱きつくなつきの腕を解いて、説いた。
「何度も言うけど、むやみに抱きつくのはよくないよ? 小夜原さん」



〜 カノン1 〜


 やさしくそんなことを説かれたなつきはその異形の男を仰いで、見るからに不満を露にした。
「どうしてよ、べつにわたしは誰にでもこうするワケじゃないのよ」
「うん、知ってる。でも、誤解されたら困るだろ」
 むっ、と唇をすぼめてなつきは唸った。
「知ってるんならわかるじゃない。わたしは困らないってば、困るのは千住くんなんでしょ……バカ!」
 パン。
 と、平手を打ってなつきはあらく息を吐く。
 結局、いつものように貴水を叩いてしまってなつきは泣きたくなった。

「――バカか。確かに貴水には君くらいの情熱が必要だと、私も思うよ」

 くすくすと笑って、背後で言った人になつきはびっくりしてふり返る。
 平手を受けた頬をいつものように撫でながら、貴水がぼんやりとした口調でその名を呼んだ。
「叔父さん」
 名前でなくて、続柄だったけれども……なつきは十分に目を瞠って、差し出されたその手を見る。
 そして、その手の主をあらためて見上げた。
「千住くんの――叔父さま?」
「はじめまして、千住久一です。小夜原なつきさん」
 にっこりと人懐こい笑顔を浮かべて、ピシリとしたスーツ姿の男性はいともたやすくなつきの名前を口にした。


*** ***


 残念なことに、貴水の口から教えてもらったのではないのだと、久一はなつきに白状した。
 がっかりとした彼女に、申し訳ないとばかりに微笑んで、
「どうです? これから貴水の新居にでも来ませんか?」
 もともと貴水が一人暮らしだったとも聞かされて、なつきは貴水をまじまじと仰ぐ。
 それに気づいて、貴水は困ったように途方に暮れた。
「叔父さん、小夜原さんも引越しの片付けとかあるんだから……そうだろう?」
「うん。でも、――」
 一人暮らし。
 その部屋に興味を引かれて、なつきの目がにわかにキラキラと輝いた。貴水の方はイヤな予感がしたのか、一歩身を引く。
「行ってみたいな、千住くんの部屋」
「そうだろうそうだろう、さすがはなつきさんだ。なあ、貴水?」
「………」
 久一の無責任な提案に無言で抗議しながら、貴水はなつきを見下ろしてきた。
 けれど、なつきも引くつもりはなかったので、そらさずに見返す。
「千住くんさえ迷惑じゃなければ、見せて」

「――わかったよ」
 大きく息を吐いて、なつきから目をそらした貴水が一言、敗北を宣言した。
 ここだけの話、彼が彼女に勝てたことはあまりない。



(慣れてるなあ……)
 引越しの荷物がまだ散在する広いフローリングのリビングに案内されて、貴水が台所に立ったのを見送りながらなつきはそんなことを考えた。
 整理されていない荷物の中で、ひとつだけ――古いクラシック・ピアノだけがリビングの隅にはじめから存在するようにある。
 貴水の愛用するピアノなのかもしれない……亀水東高校時代、彼が一人暮らしだったとは聞いたことがなかった。当然、親元から通っているのだろうと勝手に思い込んでいたがために、訊こうとも思わなかったことを後悔する。
(でも――)
 ふと、対峙する久一と目があってなつきは首を傾げた。
 叔父と甥。
 それでは、貴水の両親はどこにいるのだろう。
 おいそれと訊ける話ではない……と思って、言いあぐねていると、久一が一枚の名刺を彼女に差し出した。

『 千住プロダクション 』

 と、書かれたそれには肩書き「社長」で久一の名前が印刷されている。ご丁寧にも写真つきだから、間違えようがない。
「え!?」
 名刺と彼とを見比べて、なつきは愕然とする。
 そんな彼女をにこにこと観察しながら、久一はあらためて自己紹介をした。
「はじめまして、千住プロの社長、千住久一です。主にピアニストに力を入れてまして……小夜原さんの名前も、大会の上位入賞者として拝見しておりました。その美貌と才能、事務所として目をつけていたワケです。で、今回は貴水の入学ついでに、挨拶にうかがった次第です」
 以後お見知りおきを、と手を差し出されて、なつきは困惑する。
「叔父さん、僕の部屋でスカウトは遠慮してほしいな……小夜原さんも困ってる」
 湯気の上がったカップをお盆に乗せてやってきた貴水が、呆れたように叔父を見た。
「小夜原さんも、叔父さんのコレは職業病だから気にしないで」
「何を言う。おまえもその妙な外見と腕があれば、うちで使ってやると何度も……」
「いや、いらないから」
 叔父の誘いを即答で断ると、貴水はなつきに紅茶の入ったカップを置いて、次に叔父の前に置いた。
 お盆をテーブルの上に乗せて、その上に乗ったままのカップを手にする。

「僕は……いいよ。そういうの」

「まったく、おまえは――兄さんの才能を継いでいるくせに、もったいないったら」
 やれやれ、と肩をすくめて久一は呆然としたなつきに笑いかける。
「驚かせてしまって申し訳ない、でも目をつけていたのは本当ですよ? だから、貴女の名前も知っていたんですから」
「はあ」
 なつきはやっぱり、あまりの展開に言葉が出なかった。
(千住くんの叔父さまが社長……しかも、お兄さんって、千住くんの「父親」のこと? じゃあ、千住くんのお父さまはピアニストなのかしら? でも、  ――「千住」なんてピアニストは聞いたことないんだけど……?)
 なつきが、久一に訊きたいことは山ほどあった。

 たぶん、本当は貴水本人に訊くべきこと。
 だけど……。


to be...


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