Moonlight Piano #3


〜亀水東高校三年・バレンタイン〜
 ♯2 <・・・ #3 ・・・> ♯4



 小夜原なつきが、バレンタイン・デーにチョコレートを用意しているらしい……という噂は結構有名だった。



「……いま、なんて言ったの?」

「だーかーらー、なつきの本命チョコの行方って、誰なの?」
( ――なんで、知ってるのよ )
 と、なつきは友人・宍戸美代〔ししど みよ〕からのストレートな好奇心によって、ようやくその事実を知った。ピアノクラスのみならず、音楽科内でも有名だった噂を彼女本人がまったく気づいていなかった。
 今現在、かばんの中に仕舞われている その 噂の渦中にある本命チョコはなつきが千住貴水〔せんじゅ たかみ〕にと思って作ったモノである。
「なつきの本命って言ったら、例の凄腕のピアニストなんでしょ? 教えてよ」
「―――んー、そんなこと言った?」
 空惚〔そらとぼ〕けてみせて、なつきは心中で唸る。
(参ったな、コレじゃ堂々と渡せないじゃない)
 もちろん、なつき自身はバレたってべつにいい。告白は初詣の時に本人にしているし、公認になれば彼のピアノだって相応に評価されるハズなのだ。

 けれど――。

 チラリ、と自分の席でいつものように静かに座っている貴水になつきは視線を滑らせた。
 クラスの中でもとびきりの異彩を放つその奇怪な姿は、醜悪な痕のある身体を包帯で隠したために生まれたものだ。包帯から唯一覗いている深い闇の瞳も、その長く伸ばされた前髪でほとんど人目に晒されない。
 その眼差しが、とても優しいことをなつきは知っている。
 また。
 優しいのと同じくらい、暗く孤独なことも――。
 たぶん、彼はそれを望まない。自分のピアノの類稀な才能を隠し続けている、嫉妬を覚えるほどの徹底ぷりはなつきを苛立たせる原因でもあった。
 好奇の視線で輝いたみんなの面前で渡したら、貴水が困ることは火を見るより明らかだ。
 そう思うと、とても渡す気にはなれなかった。

 ため息。

(放課後まで、我慢するか)
 いまだ食い下がってくる美代をあしらって、なつきは頬杖をついて広げた楽譜に目を落とした。

『抒情小曲集#22 〜春に寄す〜』

 チョコレートを渡すだけですませるつもりは、毛頭ない。
 ふと、笑みが浮かんでなつきはグリーグのメロディを軽やかに暗譜した。



〜 抒情小曲集#22 春に寄す 〜


 しかし、なつきの予想を大きく上回って、クラスメートたちの容赦ない追求は時間を追うごとに激しさを増した。朝のうちはのほほんと見守っていた彼らだったが、放課後が近づくにつれなつきをこれ見よがしに付けまわすようになり……彼女の一挙動一挙手にもざわめくほど。
 帰宅の鞄を抱えて、なつきはじっとりと後ろをついて歩く一群に一瞥をくれる。
 冬の空はかげるのもアッという間だ、あと一時間もしないうちに辺りは暗くなるだろう。
 焦る気持ちばかり先走って、なつきは指先に力をこめた。
 とにかく、この集団をどうにかしないと貴水には近づけない。
 帰るフリをして校門を出て、とにかく走る。なつきを付けまわす集団の好奇の対象はさまざまだった――それは、噂になったピアニストが誰なのか、という素朴な疑問だったり。また、なつきの彼という存在を確かめたい男心だったり、単なる隠し事への下世話な興味だったり――とにかく、そのしつこさといったらなつきをほとほと困らせた。
 やっとのことで、学校に戻った頃にはすでに夕闇が落ちてほとんど夜。
 それでも、あの貴水のことなので旧音楽科校舎にいるのではないかと、なつきは思ったのだが……。

 「 千住くん、いないの? 」

 ひどく、その事実がショックだった。
 もちろん、貴水がなつきのチョコレートを待っているなんてことを期待していたワケではなかったが……それでも、ここにいてくれるのではないか、という淡い想いがあった。
 彼がいたらチョコを渡して……そして。
「……なんか、疲れちゃった」
 ホールにある小さな舞台にあがり、古いピアノに座ると蓋をされたそれに頬を乗せる。
 ひんやりと冷たい空気が静寂を包んで、なつきをも抱いた。



「―――ん」

 あたたかい。
 ふと感じた感触に、なつきは瞼を上げた。
「 小夜原さん 」
 と、その声は言った。
「 こんなところで寝たら、風邪ひくよ? 」
 と。
 ハッと意識を覚醒すると、なつきは彼を月明かりの下で見つけた。
 包帯の裾と、長い前髪がわずかになびいて、闇が妙に似合う異形の彼はやわらかに笑っている。
「千住くん!」

「 うわっ 」

 まさか、なつきに抱きつかれるとは思わなかった貴水は、慌てて彼女を引き離そうとした。
 しかし、あまりの力の強さに躊躇〔ためら〕うと、なつきの頬に残った涙の跡〔あと〕に気づいてしまった。
 手持ち無沙汰も手伝って、その背中に手を廻してしまった彼は結局、彼女から逃れることができなくなった。
「――千住くん、受け取ってくれる?」
 落ち着いたなつきが鞄から出したのは、可愛くラッピングされたチョコレートと思しき包みだった。
「………」
 なんとなく物問いたげな貴水の眼差しは、なつきを初めて見るように見開いて逸らす。
「僕に?」
 その意外そうな声になつきは憤慨して、答えた。
「初詣の時に言ったじゃない、それとも聞いてなかったの?」
「そうじゃないけど……僕は、受け取れないからさ」
 苦く笑って、それでもキッパリと彼は拒絶した。
 なつきは、昏〔くら〕い眼差しの貴水を見上げたまましばらく黙って、「じゃあね」と鞄からとある封筒を差し出した。



「 小夜原さん? 」
 今度こそ本当に当惑した貴水に、なつきが有無を言わせない語調で言う。

「どっちか、選んでほしいの」

「選ぶって言われても……」
 目の前に差し出されたチョコと封筒に、貴水は確かに困惑して相手を見る。
 チョコレートはどう見てもチョコレートだし。
 封筒は、どうみても「風花音楽大学」の二次日程試験願書だった。
 どっちにしても、なつきは貴水から離れないということなのか――貴水は、ため息とも吐息ともつかない白い息を吐くと、封筒を受け取った。
「合格できるかは知らないよ」
 なつきはきょとんとして、くすくすと笑った。
 面白い冗談だと、思う。
「できるわよ。あなたが手さえ抜かなきゃね」
「……さあ、どうかな」
「あのね、千住くん……わたし、前に言ったこと本気だから」

『――じゃあわたしもそこにする』

 推薦も信頼も未来も……何もかもを蹴って、なつきは貴水についていくと言った。
「まさか、できるワケがない」
 呆然と口にして、貴水はそれが馬鹿げた自分の希望だと実感した。なつきは本気ですると決めたら、確実に実行する。
 彼女の豊かな才能を重く受け止めて、嘆く。

「 最上級の脅迫 」


*** ***


 その年の卒業式の日――。

 なつきの凄腕の彼というのが「 千住貴水 」ではないか? とにわかに囁かれた。理由は至極簡単で、目立つ二人が大晦日に会っていたのを見た人間が複数いたことと二人の距離。
 卒業式には、なつきが卒業演奏を見事に披露し、その舞台から派手に貴水に抱きつくエピソードがあったり、周囲が驚くような二人の親密ぶりが明らかになったりして、それまで軽視されていた目撃情報が俄然真実味を帯びはじめる。
 だが、真相は誰にも分からなかった。

 ただ、千住貴水が「カザバナ」に合格したということだけは……後日、判明する。


fin.


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