Moonlight Piano #2


〜亀水東高校三年・大晦日〜
 ♯1 <・・・ #2 ・・・> ♯3



 流れる優しい演奏に、小夜原なつきは目を閉じてパンフレットを持つ手ではない右手を知らずに動かした。
 強く、やさしく。
 ここは少しためて、流れるように次のセンテンスへ――。

 トン。

 と、肩に隣の肩が当たる。
 そちらへ目を開けて、なつきが口にするより先に彼が人差し指でそれを止めた。
『 声を出しちゃダメだ、小夜原さん 』
 暗に彼――千住貴水〔せんじゅ たかみ〕は唇に指を添えて示す。
 その姿の異様さ、醜悪さは光源を絞られたピアノコンサート会場の中でさえ異彩を放って映る。包帯で隠された素顔からは深い闇の瞳だけが覗いて、その下のひどくただれた肌を極力さらさないように配慮している。
 長く伸ばされた彼の前髪も、そのひとつ。
 なつきは、微笑んで頷くとふたたび目を閉じて、ピアノの音色に集中した。
 横に座る彼の音に合わせたような息遣い、時々動く指、背くようなリズム。
(誘って、よかった)
 と、あらためて思う。

『カウントダウン・クラシック 〜ピアノコンサート〜』
 貴水の好みかどうかは分からなかったけれど、なつきの好きなピアニストが演奏するコンサートだった。

 チケットを貴水に渡した時、彼が奇妙な表情をしたので迷惑だったかと心配していた。彼に何かをする時は、いつもそう。
 ほとんど断れない方法で頼むからよけいに勘ぐってしまうのだけど……そうでもしないと、貴水は彼女から逃げてしまいそうで。
 彼の肩に頭を乗せて、腕に腕を絡めてみる。
 コンサート中にするのは、反則だろうか?
 でも、こうでもしないとたぶん、貴水は許してくれない。
 緊張する鼓動と卓越したピアニストの音色に耳を寄せて、なつきは貴水だったらどんな弾き方をするか想像した。

 愛するように抱くやさしい音色だったらいい――。



〜 主よ、人の望みの喜びよ 〜


「わー、真っ暗だよ。千住くん」
 コンサートの途中からずっと絡められたままの腕に、貴水は困惑しながら――だからと言って、タイミングを逃したそれをことさら引き離すことも彼にはできなかった――すっかりと日の落ちた空をぼんやりと眺めた。
 十二月も大晦日ともなると、遅い時間にならないうちにすっかりと暗くなってしまう。
 ダッフルコートに、赤いチェックのミニスカート、細い首には同色のチョーカーを付けて、下はチョコレート・ブラウンのストッキングにロングブーツというおおよそピアノコンサートには不向きなカジュアルな服装でなつきは無言の貴水を仰ぐ。
 長い黒髪がサラサラと冷たい風になびいた。
 吐く息が白い。
「うん……」
 みずからも白い息を吐いて、貴水は歩き出した。
「どこ行くの?」
「帰る。送るけど……家どこだっけ?」
 腕を組んだままだから、いつも周囲にある視線とはまた趣旨の違う眼差しが二人を囲んでいた。
 人間離れをした醜悪な包帯姿の男と、美少女なんて確かに奇妙だろう。
 貴水自身、今現在の状況は不本意だった。できるだけ、人には近づきたくない。
 けれど、小夜原なつきの存在はそんな彼の信念をも曲げさせる。強い意志とまっすぐな心、自分勝手なまでの優しさに引き寄せられ、無視できない存在となっていた。
 なつきは貴水のピアノに憧れているが、貴水はなつきの才能に期待していた。
 自分にはない、成長する音。しなやかでやさしく、どこまでもまっすぐに伸びていく。
 彼女の音は、けっして人を傷つけない。
 自分のような、――絶望させるピアノではないのだ。
 だから。
(早く、帰らないと。電車もなくなるしなあ)
 もちろん、普通に帰れば今なら十分に電車があるのだが――貴水には不安で仕方ない。
 彼女がいる限り、自分の予定通りには進まないのではないか?
「帰るの? 今日は大晦日だよ、初詣にいこうよ」

 ああ、やっぱり。

 と、貴水は困惑して歩きながら、どう彼女を説得しようか考えた。
「ダメ」
「どうして? だって、もう親にも言って出てきちゃったのに。帰れないよ? わたし一人で初詣に行かせるの? 千住くん」
「………」
 貴水はそんななつきを見下ろして、説得しうるすべての言葉が無意味になるのを実感する。
 こんな彼女を一人で初詣に行かせることなどできるだろうか?
 なつきはただでさえ、可愛い。
 うえに、今日はやけにお洒落をしている。
 貴水が手を離せば、確実に彼女は無防備になるだろう。

「わかった」

「ホント? うれしい」
 絡めた腕になつきは力を込めて、しがみつく。
「きっと、今日は電車フル稼働だろうし……大丈夫だよな」
「え?」
「いや、電車があるうちに帰れるか帰れないかの話」
 ため息とともに、貴水は力なく呟いた。


*** ***


 ぞろぞろと歩く人波。
 色鮮やかな振袖姿の女性たちと、腕を組んだり手をつないだりしたカップル、猛々しい声を張り上げる若者、子どもたちを伴った家族や熟年の夫婦。
 いつもの夜とは違う雰囲気で、みながひとつの方向へと向かっている。
 寒さは足の底から刺すように這い上がってくるのに、厳粛な冷気は誰をも優しく包んでいる。

 ゴォーン。

 百八のうちの一回目の鐘が響き、一斉にみんなが空を見上げた。
 歓声をあげる者もいる。
「もうすぐ、今年も終わりだね」
 と、なつきが白い息で冷えた手を温めながら隣の貴水を仰いだ。
 彼女にしてはめずらしく、しばらく躊躇〔ためら〕って訊く。
「千住くんは……どうするの?」
「どうするって、……何が?」
「進路、大学行くんでしょ? 推薦はもう終わってるし――どうするつもりなのかな、って」
「行くよ、どっか適当なトコロに」
 暗にそれは、なつきとはちがう音大ということか。
「ふーん、じゃあわたしもそこにする」
 さらりと口にしたなつきの言葉に、貴水は目を瞠〔みは〕る。長い前髪から外気から閉ざされたような闇の眼差しが、揺らいでいるのがわかる。
「本気だから、わたし」
「小夜原さん、それは……だって君は推薦で決まってるじゃないか、名門のカザバナ――」
 それを蹴る、という行為がどういうことなのか、なつきは解かっているのか。
 学校の信用だけでなく、自分の未来にも深い傷をつけることになる。
( ……… )
 いや、解かっているからこそ貴水に迫っているのだ。
 どうするのか、と。

「千住くん」

 百八の煩悩を消していく除夜の鐘。
 一際大きな歓声があがる。

「 わたし、あなたが好きなの 」

 と。
 年が明けて最初に聞いたのが、彼女の告白だった。
 彼女らしい、潔いほどのキッパリとした声。
 貴水はうろたえるより先に、どう反応していいか分からなかった。彼女から好かれているとは思っていたが、それはピアノだけの話なのではなかったか。
「ああ、そう」
 だから、味も素っ気もなく彼は呟いてしまった。
「バカ」
 なつきは拗〔す〕ねて言い、ぞろぞろと初詣客に押されながら貴水にしっかりとひっついた。
「答えてくれなくてもいいのよ、今は――だって、まだはじまったばかりだもの、そうでしょ?」
「………」
 当惑した貴水は否定するでもなく、だからと言ってすすんで肯定するでもなく、なつきと共にぞろぞろと人波に呑まれていく。



「あー」
 何をどう答えればいいか、貴水は混乱して呻〔うめ〕く。
「ごめん、小夜原さん。なんかまとまらない……僕にはわからないから」
 なつきは、嘆息して首をふる。
( いいんだ )
 と、無理矢理思う。
 初めから貴水の前向きな答えを期待していたワケではなかったが、それでもやっぱり困ってほしくはなかった。
 困らせたいワケじゃない、本当は。

 ただ、彼のそばにいたいだけなのに――。

「 今年もよろしく 」

「………え?」
 空耳のように聞こえた彼の言葉に、なつきは顔を上げる。
 落ち着きのなくなった貴水の表情に、ドキリとする。
 もしかして、顔が赤い?
 包帯の下ではよくわからないけれど、そんな気のせいのようなことを思ってなつきはとても嬉しくなった。たとえ、コレが自分の願望が見せた幻だとしても、今はそれでいい。

「 うん 」

 ようやく笑ってくれたなつきに、貴水がホッとしたように目を細めた。


fin.


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