格子の入った高い窓には、暗い夜の空。
細く削られた月の光は弱く、舞台の上の人影をわずかにしか照らさない。
細くしなやかな肢体と細くながい指。
狂騒めいた旋律。
初めて命を得たようなビアノの声に、羨望と嫉妬が生まれた。
彼の醜悪な姿からは想像もできないような、はかなく強い圧倒的な才能に――。
愕然とする。
褒め上げられてきた自分のピアノが、まるでオモチャのビアノで奏でていたように感じて。
そして、それをあたかも自慢するように吹聴していたのだと思うと……手にしていた楽譜を強く握りしめた。
彼の名前は、千住貴水〔せんじゅ たかみ〕。
有名すぎる話、特異な特徴を持つ彼の醜悪な姿は校舎がちがっても知れわたる。加えて、小夜原〔さよはら〕なつきは彼と同じ一年のピアノクラスでもあるから、知らないワケがない。
今まで、彼の演奏を聴いたことはなかった。
――こんな演奏を聴いたことは。
いつもの彼は、もっと特徴のない弾き方をする。誰の耳にも残らないようなつまらない音――なのに。
この演奏は、なに?
「 千住くん 」
びくり、と鍵盤をなでる指が止まる。
と、その目がゆっくりと舞台の下に立つ女子生徒をとらえる。
醜くただれた顔を極力隠すように伸ばされた無造作な黒髪と巻かれた白い包帯の裾がなびく。
弱い月明かりの中、立ち上がる華奢な長身は驚いたように目を瞠〔みは〕って彼女を見ると、その攻撃的な眼差しに「聴かれちゃったんだね」とふわりと 綺麗に 笑った。
〜 月光 〜
亀水〔きすい〕東高等学校、音楽科……ピアノクラス、三年。
教室の扉を開け放つと、なつきは自分の席でひっそりと座っている長身の彼へツカツカと寄ると仁王立ちになる。
顔を上げた貴水へと、平手を飛ばす。
小気味のいいパン、という音が教室中に響いて辺りは喧騒から一転、シンと静まり返った。
「千住くん、またやったわね!」
「………」
「卒業式の公演、決まったわ」
彼はふと目を細めて、席を立つ。静かに「おめでとう」と笑ってなつきを横切った。
「ちょ、せんじゅ……」
さらに追求しようとするなつきを、周囲のクラスメートが放っておかなかった。
ワッ、と集まると口々に祝辞めいた言葉をかけてくる。
「やったな、小夜原!」
「小夜原さん、本当なの? おめでとう」
「きゃー、さっすがなつきっ」
と、言って抱きついてくる友達までいるから、なつきは動こうにも動けない。
「 千住! 」
「小夜原さん」
なつきの入ってきた扉に半身出かけた格好で、顔だけを教室にもどした貴水が言った。
「平手はよくないよ、ピアニストの手なんだからさ」
「 な! 」
カァッ、となってなつきは、「おまえが言うな!!」となじった。しかし、教室を出てしまった彼に届いたかどうかは疑わしい。
そんななつきたちを、クラスメートたちが不思議そうに眺めていた。
二人のやりとりは案外いつものことで気にもとめないことなのだが、謎が多いのも事実だ。
「なあ、小夜原さんはどうして千住に構うんだろうな?」
「一年の頃から妙に敵視しているわよね」
「小夜原の敵じゃないだろう? アレは」
失笑するものへ、なつきは鋭い足蹴りを見舞った。
ふん、と知らぬ顔をして苛立ちを落ち着ける。
「 ――― 」
確かに、千住貴水は筆記試験では高い評価を得ている秀才ではあるが、実践では凡才……というのがクラスメートたちの一般的な評価だ。むしろ、筆記の高い評価があるがゆえに、このピアノクラスにいるのだと思われている節がある。
その目立ちすぎる姿とは裏腹に、――彼はピアノの腕だけではなくクラスでの存在感も希薄すぎる。まるで、「幽霊」のように――。
苛立ちは、この周囲の彼に対する過小評価が原因だった。本当なら自分よりもはるかに高い場所にある彼だ。
居心地が悪くて仕方がない……本当に、卒業式公演でピアノを弾くべきは彼のハズなのに。
なのに、
千住は重要なその選考会では絶対に手を抜いて本気では弾こうともしない。
それが 無性に イライラした。
講堂の舞台に据えられたグランドピアノに向かって、なつきは一心に弾いた。
曲目はベートーベンのピアノソナタ「月光」。
鍵盤の上を軽やかに舞うほっそりと長い指は、弱々しさなど微塵もない強さで軽快な音を奏でる。物心ついた時から、そうしてきたように迷いのない指さばき。
額にはうっすらと汗をかきながら、その音はどこまでも澄んでいる。
闇に落ちる一滴の月光……。
しかし、突如として奏でるのをやめる。
卒業式でのソロ公演が決まった――その練習のために、舞台である講堂を週に一度貸しきることを許されたのだが集中できない。
(彼なら、こんな弾き方をするかしら?)
自分でもコレが、邪推だとは分かっている。
けれど、時々不安になる。指が一歩も前に進まなくなるほどの、不安。
彼を引っぱたいた手のひらが、痛い。
「やっぱり、鬱陶しいんだろうな……わたしみたいな女」
浮世離れした才能を持ちながら、まったくそれを出さない貴水をなつきはずーっとせっついてきた。それは、嫉妬であるとともに憧憬でもあった。
自分には到底、到達することのできない領域を彼は自在に操ることができる。
それが、どんなに素晴らしいことか……羨ましいことか……貴水には分からないのだろうか?
分かってほしくて、せっついた。
しぶる彼を引っ張って、選考会にも応募したし、発表会にだって誘った。
ほとんど、脅しに近い方法だったけれど貴水もことさら断ることはなかった。
ただ、やはり本気は出さない。
そのたびに引っぱたくなつきに、彼は何事もなかったように笑うだけ。
色々な感情が、なつきを取り巻いていた。苛立ち、焦燥、不安、戸惑い、悲しみ、絶望――。
「僕のコレはね、誰も喜ばないんだ……絶望させるだけだって知ってるから」
と。
はじめて本当の千住貴水に会った時のことを、なつきは思い出して泣きそうになる。
*** ***
放課後の学校に、夕闇がせまる頃。
南の校舎の渡り廊下を仮装した生徒がはしゃいでいた。
なつきはそれで、はじめて今日が10月31日だと気がついた。
仮装する彼らを走って横切りながら、懐かしいざわめきを聴く。
身が総毛立つようなピアノの調べが、調律された音で校舎内に響いていた。時々、そのピアノに「誰が弾いてるの?」「きっと、ピアノクラスの誰かよね」という暢気な普通科らしいコメントがついてくる。
焦るなつきは、バタバタとプリーツのスカートを翻しながら、渡り廊下を抜けて普通科の端にある旧校舎に入った。
玄関ホールにある簡素舞台、その古いピアノに彼がいた。
二年前。
一年の三学期だったあの時のように……ただ、夕闇だけがあたたかい。
「千住くん」
ハアハア、と息を切らしたなつきに、貴水は目だけを細めて「月光」を弾く。
(……やっぱり、ちがう)
と、ある種の達観した想いがなつきに悔しさではなく、清清しさをあたえた。
(やっぱり千住くんの音はわたしには出せない。けど――なんだか、それが嬉しい)
彼が全楽章を弾き終えるまで、待つ。
次第に夕闇が濃い闇に移り、光源のない旧校舎はアッという間に人影の表情を消した。
「今日って、何かあった?」
と、なつきが舞台の階段を上りながら訊いた。
古い旧校舎のピアノに触れて、なつきは鍵盤の重さを心地よく指に感じた。
ぽーん、と放置されていたとは思えない澄んだ音が響く。
彼がここで、人知れず練習していたのだろう……あの夜と同じように。
けれど、それは人気がなくなる夜になってからのこと――今日のようなことは、まったく 彼 らしくなかった。
「 ………ただ 」
少しの間をおいて答えた貴水の言葉は、なつきの期待したような甘いモノではなかったけれど。
「ちょっとしたイタズラのつもりだったんだけど、ハロウィンだしね」
包帯で顔を覆った彼は、確かに仮装をした「おばけ」のようでもある。
ちょっと、裏切られた顔をしてなつきはそれでも、くすりと笑う。
( だって――― )
「よかった」
「何が?」
と、貴水がなつきの言葉を訝〔いぶか〕った。
「安心しただけ。わたし、不安だったから迷惑なんじゃないかって」
にっこりと笑って、貴水を見下ろした。
すこし、当惑したようなその瞳に告げる。
「ずっと付きまとって、迷惑じゃなかった?」
「 ……… 」
さらにさらに、彼が困惑したのが分かるとくすくすとなつきは笑う。
「ありがとう」
そして、これからも覚悟してよ。
彼がここで――なつきの通常のアンサンブル室での練習日ではなく、講堂での練習日にわざわざイタズラをするなんて、それとしか理由が考えられない。
きっと、自信喪失していたわたしにわざと聴かせるように弾いたにちがいないんだから。
分かりにくいったらないじゃない?
*** ***
次の日になって、ピアノクラスでも昨日のピアノ奏者が誰なのか……という話でもちきりだった。
旧校舎は、普通科の外れにあるから音楽科の生徒は知らないだろうと期待した貴水の予想に反して、偶然聞きつけた生徒がご丁寧にも吹聴したらしい。
なつきからすれば、さもあらんという展開である。
それくらいに、貴水のピアノは常軌を逸しているのだ。
本人がそれを、あまり自覚していないというだけで。
「小夜原じゃないのか? 確か、講堂で練習していたんだろう?」
と、クラスメートの男子生徒がなつきに向かって津々と首を突っ込んでくる。
ほかの生徒もそうではないかと、疑いもしない目でなつきを見る。
「ちがうわよ。わたしもそのピアノは聴いたけど……弾いたのはわたしじゃない」
笑みをふくんだなつきに、さらに男子生徒は突っ込んだ。
「おい、なんだよ、それ。小夜原の知り合い?」
「え?! そうなの?」
「なんだよー、彼氏かーあ?」
クラス中がその発想にどよめいた。
嬌声と悲壮な嘆きがあがる。
「おいおい、嘘だろー」
「なつきー、ホント? 初耳だよ、そんなの」
友だちに恨みがましい目で訴えられて、なつきは曖昧に笑った。
「さあ? 分からないけど……もしかしたら案外近くの人かもね」
と、ニヤリと笑って目だけで貴水を指し示した。
「………」
自分の席でいつものように座っていた彼は、肩をすくめた。
内心、なつきが自分の名前を口にするのではないか、とハラハラしていたのかもしれなかったが、表情からは読みとれない。
顔のほとんどを包帯で覆っていては、それも仕方ないことのように思えるが――ふと、その唇が弧を描く。
笑った?
そう思った瞬間、彼の目が自分のそれに驚いたようにおおきく見開かれていた。
fin.
#1 ・・・> #2
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