年明けた、一月。
風花音楽大学の事務棟ホールで、小夜原なつきは卒演――卒業演奏会の準備のためにレッスン室の鍵を借りて、手からすべり落とした。
「あ……」
楽譜を手にしたまま、屈んで、止まる。
その音に背筋が凍って、声もでなかった。
振り仰ぐ。
「千住くん」
喝采が鳴り響くテレビの中に 彼 がいた。
醜悪な傷を晒〔さら〕した……彼の表情はおだやかでやっぱりとてもキレイな微笑を浮かべていた。
〜 セレナーデ1 〜
扉から入ってきた不機嫌な「姫」に、千住久一は久方ぶりのその勢いに気圧され今が一体いつだったかと錯覚する。
今しも、そこに千住貴水が現れそうな……そんな懐かしいなつきの 本気の 怒りが目の前にあった。
「おじさま! わたし、ドイツに行きます!」
「行くって……なつきさん?」
唐突なその申し出に、久一はぽかんとした。
「もう! 信じられないっ。人が大人しく待ってたら、千住くん! 何してたと思います?!」
「さ、さあ? サキの学校に真面目に通ってるんじゃないの。アイツはそういうヤツだよ」
キッ、となつきは社長室の椅子に座る久一へ歩み寄り、バンとその前にある黒塗りの机を叩いた。
「あっちのコンクールで優勝してたの!」
「ああ、そう」
真面目に勉強をしていれば、そういうこともあるだろう。
久一は、なつきが貴水のコンクールの優勝にここまで怒る理由が分からなかった。
むしろ、もっと喜ぶと思っていたが……。
「悔しいのかい? なつきさん」
「ちがいます! そりゃ、すごい演奏だったからかなわないって思うけど……いつものことだし。そうじゃなくて、腹が立つの。おばさまから手紙で「わたしとピアノが弾きたい」って言ってたくせに!」
「元気そうだった?」
ニヤニヤ、と笑い出した久一になつきは顔をしかめて頷いた。
「とても。――別人みたいでした」
「そうか。で、我慢できなくなったってワケだ?」
なつきは「そうです」と、即答して彼の住んでいる詳しい場所を久一に求めた。
ちょっとした確認のために、訊いてみる。
「何しに行くんだい? なつきさん」
「 もちろん、引っ叩いてやる! 」
だろうね、と久一は楽しげに仰け反って相槌を打った。
「本当は、すぐに行くつもりだったのよ。だけど、久一おじさまが「卒演」を済ませたあとの方が、ゆっくりできるだろうって言うから。確かに、それもそうだと思って……だから、卒演のあとドイツに行くわ。わたし!」
お酒が入って少し、饒舌になったなつきに美月綾が目を白黒させた。
こんななつきを見るのは、一回生の彼からすれば初めてだったから……うろたえて日間八尋を仰いだ。
「ようやく、本調子だね……小夜原さん」
くすり、とどこかホッとしたような八尋の表情。
「ホント、ヤキモキさせて人騒がせなカップルよね」
「言えてるー!」
四十万恵が苦笑まじりに相槌を打つと、愛が『メルメゾン』のカウンターにグラスを勢いよく叩きつけた。
カン、という高い音を響かせて、その目は赤くほろ酔いを示していた。
なつきの肩に手をおくと、「なによー」と絡む。
「「卒演」のあとでゆっくりできるなんて……何、考えてるのよ? やらしー」
くけけ、と奇妙な笑い声を出して愛はなつきに迫った。
「ちょ、ちょっと飲みすきじゃないの? 鈴柄さん」
「ふーんだ、図星のくせに。妬けちゃうなー、わたしだって好きなのに」
「……大丈夫?」
俯いて黙りこんだ愛に、なつきは流石に心配になる。
「だぁいじょうぶでーす!」
ガバリ、と顔を上げた愛は、やはりいつもの愛だった。
「ね? いま、小夜さん、ホッとした? ホッとしなかった??」
「そ、そんなことないわよ! バカねっ」
「ムキになるところが、あやしーなー。ま、いいけどー?」
からかうように笑って、愛はそっぽを向いたなつきに食いついてくる。
腕にしがみついて、ふたたび訊いた。
「で? ドイツでゆっくり何するつもりなのよー。スケベ」
「……スケベかしら? やっぱり」
ポツリ、と答えたなつきに愛の方が目が点になった。
「え? やだ! 真面目に答えないでよっ。困るじゃない!」
「だって、考えちゃうんだもの。そういうこと……仕方ないじゃない」
「いーやー! 生々しすぎるー、わたしに訊くなーっ」
ほぼ、涙目になって愛は哀れなほどに訴えた。
「う、嘘だ……」
まさか、なつきと貴水がそういう関係にまで進んでいたとは聞いていなかった綾はショックを受け、目の前が真っ暗になるのを感じた。
to be...
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