Moonlight Piano #21


〜風花音楽大学四回期・春 → 秋〜
 ♯20 <・・・ #21 ・・・> ♯22



「クセのある子だから、大変だとは思うけど」
 外見もあんなだし……と、水江の試すような意地悪な表情になつきは首を振った。
「いいえ」
 そんなことは、苦ではない。
 けれど、彼はもう自分を必要としてないのかもしれないと、思う。
 帰国をしても、知らせてもくれない。口止めさえして遠ざけるのは、会いたくないから?
「でも、千住くんはもう……」
 なつきの不安を知った水江は困ったように微笑んで、「ごめんなさいね」と謝った。
「安心させたいのは山々なんだけど、詳しいことは説明できないのよ。あの子ったら妙に頑〔かたく〕なだから……」
「……いいんです」
 なつきは力なく言って、気丈に貴水を援護した。
「 そういうところ、千住くんらしいって思うから 」

(彼が望むまで、もう少し待ってみよう……)

 水江の言葉を信じて、なつきは心に決めた。



〜 別れの曲 〜


 それから夏の間、なつきは実家に戻るよりも多く水江のいる療養所に足を運んだ。
 精神的なショックから度重なるストレス、重度の不整脈に酷使された水江の心臓は次第に機能を衰えさせ、静かにその時を迎えようとしていた。
 調子のいい時は変わらずおしゃべりな人だったが、時々苦しそうに笑った。
「ポンコツの心臓なんだから」
 と。
 水江はそう言って、自らの心臓を叱咤した。



 千住久一が大学に現れた時、小夜原なつきは葉山水江の死を直感した。
 大学が始まって、そう頻繁には顔を見せることができなくなっていたからこういうことも あるいは あるだろうとは思っていたが……それでも、現実に起こると素直には認めることができなかった。
「おじさま……」
 損な役回りに久一は顔を歪めて、手紙を取り出した。
「すまない、なつきさん……君が怒るだろうとは思ったけど、水江さんの遺言だったものだから」
 と、差し出す。
「いつ?」
「一週間前……もう、初七日も終わってる。君には知らせないで欲しいと言われてね、全部終わってから渡して欲しいと」

「じゃあ、千住くんは?」

「ああ、帰国して喪主を務〔つと〕めた。今はまだ日本〔ここ〕にいるよ」

 なつきは顔を上げて、久一の目をまっすぐにとらえると一礼して手紙を受け取った。
 そして、背後で様子を見ていた四十万恵〔しじま めぐみ〕にふり返り、「ごめん、恵!」と大きな声で言う。
「わたし、今から学校休むから適当に誤魔化しといて!」
「了解。お礼は、マンモスのチキンセットでいいよ」
 ひらひらと手を振って、かるく微笑み、恵はなつきを送りだした。

 そこに確かに存在していたのに。

 なくなったその場所に、なつきは立って彼女が確かに「いなくなった」ことを知った。
 簡素なベッドは整理され、次の患者をすでに受け入れようとしている――。
「息子さん? ああ、あの目立つ……彼なら今日発つからと午前中に挨拶に来たわねえ」
 特異な姿をした彼を思い出したのか、担当の看護士は一度言葉を切ってから、あらためて頷いた。
「今日?」
「ええ、ドイツに留学中なのでしょう? よく自慢されていたから覚えてるんです。で、訊いたら今日戻ると……大丈夫ですか? 顔色が」
 明らかに強張ったなつきに、看護士の女性が心配そうに覗きこむ。
「平気です。それで、千住くんは?」
「さあ? 確か昼前にはここを出て……フーカ? だったかしら。に寄るとか言っていた気がしますけど」
 くらり、となつきは眩暈を覚えた。
(千住くんが大学に? 昼前に出たなら……ちょうど入れ違いじゃない!)
 急いで戻れば、間に合うかもしれない。
 なつきはささやかな希望に慌てて手荷物を掴むと、頭を下げて「魚路利〔うおじり〕療養所」をあとにした。



 『宴会部』の集会場所である教室に顔を覗かせた部外者の彼に対応したのは、声楽科一回生の美月綾〔みつき あや〕だった。
 その目立つ容姿に、すぐに綾は理解した。
 四回生は、まだ来ていない。だから、正直に答えた。
「小夜原先輩はいませんよ」
 もうすぐ、来るとは報〔しら〕せずに。
「……そう。だったら、いいんだ」
 キレイな微笑を見せた彼に、綾は引きとめようとも思わなかった。
(どこがいいんだろう……小夜原先輩も愛先輩も)
 あっさりと去っていく華奢な長身の背中を見送って、日間八尋の言っていた意味がようやく解〔わ〕かったような気がした。
(こんなヤツ、ただの化け物じゃないか)


*** ***


 大学に戻ったなつきは、綾からの話を聞いて呆然とした。
「じゃあ……もう?」
「たぶん、大学にはもういないんじゃないかな? 7時の飛行機だって言ってたから」
 なつきは思わず、窓から暮れ落ちた空を仰いだ。

 パン!

「なっ!」
 思いっきり頬を引っぱたかれて、綾は手のひらの主を睨んだ。
「何するんですか! 愛先輩」
「馬鹿! 引き止めなさいよ。意地が悪いわよっ、綾!!」
「な、なんで愛先輩が怒るんですかっ」
「もう、もうっ、ホント気が利かないんだから! 貴水くんの飛行機なんかキャンセルさせちゃえばよかったのにっ」
「んな、無茶苦茶な……」
 じんじんと痛みの走る頬を撫でて、綾は(やっぱりこの人嫌いだ)と思う。

「すみません、小夜原先輩」
 申し訳なさそうに頬を腫らした綾を見つめて、なつきは「いいのよ」と首を振った。
「頬、大丈夫?」
「ははっ、愛先輩って凶暴ですよね」
「なによ? 綾ちんの自業自得でしょ」
 ふん、と目を赤くした愛はなつきから顔を背けて、走っていってしまった。
 暗い窓の外を仰いで、月から洩れでた光をうけた薄雲が円を描いているのを見る。
 なつきはコツン、と窓ガラスに額をつけると、そのひんやりとした感触が目に沁みるのを感じた。
「先輩……泣いてるんですか?」
 綾の声が、遠く彼方で聞こえたような気がした。
「 ううん、平気よ 」
 口元をゆるめて、誤魔化した。



 ――なつきさん。ごめんなさい。

 手紙の序文に書かれたのは、そんなほっそりとした水江らしい文字だった。

『 こんなことを手紙であなたに伝えることを、謝らせて。
 でも、本当に伝えるのは貴水の仕事だと思うから……ここには、わたしの気持ちだけ書かせてもらおうと思います。
 父親の弱さを、貴水は恐れていました。
 他人に合わせることで、その父親に似た自分の弱さを見ないですまそうともしていました。
 けれど、それはなつきさんに触れることで変わりました。
 今は、努力している途中ですが……はっきりと言ったんです。
 「小夜原さんと、本当のピアノが弾きたい」と。
 貴水がなつきさんにつりあうようになるには、まだ時間がかかるかもしれません。

 でも、なつきさんならきっと待っていてくれるわよね?
 母子でワガママだけれども、どうか、もう少し我慢してください。

 葉山水江 』



 手紙と一緒に、色褪〔あ〕せた家族写真が 一枚 なつきの手元に残った。
 それは、家のリビングで撮られたモノらしいごく普通の母親と、父親と、ピアノの前に座る幼い息子の写真……水江がどのような気持ちでこの写真を眺めていたのか、訊くことはもうできない。


fin.


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