『千住プロダクション』社長室の窓にかかった白いカーテンが翻って、湿った空気が流れてくる。
ドイツの風は、もっと乾いているだろうか? と想像して、千住久一は苦笑いをした。
「便りがないのは、いい便りだって言うじゃないか。なつきさん」
「……おじさまの意地悪」
むぅ、と唇をすぼめた美人に(もったいないもったいない)と久一の心が嘆いた。事務所に籍は置くものの、「カザバナ」卒業後も本格的なプロ活動はしないと決めている彼女に、いまだ未練があるのは仕方ない。
母親の経営するピアノ教室への就職を希望している彼女を口説くために、甥の話題をエサにするのはやはり「卑怯」だろうか?
「すまないね、私も本当に連絡をもらってないんだよ……最近は特に忙しいらしくてなあ」
「そりゃ、忙しいのかもしれないけど。薄情です」
顔を背けて不満を口にしたなつきは、ポツリと言った。
「元気なんですよね?」
「ああ、それは……大丈夫だよ」
何しろ、何回かは日本に戻ってきているくらいには元気だ……とはとても言えなかった。貴水から口止めをされているからとは言え、良心が痛む。
心から、心配をしてくれるなつきを騙しているようで心苦しい。
(まあ、貴水の気持ちも分からないではないが……そろそろ本当にやめて欲しい)
久一の答えにホッと表情を和らげて、
「それならいいんです。千住くんのことだから、無理してるんじゃないかと思って」
「ははは、確かに。でも、まあ頑張ってるよ……アイツなりに。だって――」
と、喋りかけて久一は慌てて口をつぐんだ。
( 危ない、危ない )
「おじさま?」
「いや、なに。そうだ、なつきさん。水江〔みずえ〕さんの方には行ってる?」
妙な話の展開に、訝〔いぶか〕しく思いながらなつきは頷いた。
「はい、また夏期休暇の間に行くつもりですけど」
「そうか、それがいいね。私も早いうちに行くつもりではあるけれど……あっと」
「おじさま?」
またしても表情の曇った彼に、なつきが眉根を寄せて訊いた。
「どうかしたんですか? 水江さんに何か……」
「あー、ちがうちがう! 仕事のせいでなかなか行けないからなつきさんに行ってもらえると助かるなと思っただけでっ……心配はないんだよ」
久一は椅子から身を起こして、「はー」と隠れてため息をついた。
(参ったな、私から話せる話題がどんどん削られているじゃないか? ――誰か助けてくれたまえ)
親子二人から口止めをされた 元来 おしゃべりな社長は泣きたい気持ちで訴え、追及色を強めたなつきの険しい眼差しににっこりと笑うしかなかった。
さぁて、どうやって誤魔化そうか……久一は、頭の中をフル稼働させて考えた。
〜 G線上のアリア2 〜
久一の話を聞いたなつきは、事務所を飛び出して、午後のまだ日が高いうちの電車に乗って「魚路利〔うおじり〕療養所」に向かった。
貴水の母親である、葉山水江がそこにいる。
(うそ、嘘よね? おばさま!)
バスを降りて郊外の高台にある療養所になつきが着いた時、日は傾いて夕刻になっていた。
面会時間に何とか滑りこんだなつきは、知らないうちに駆け出してすれ違う看護士に注意を受ける。けれど、それも彼女の耳には入らなかった。
( ウソ! )
視界が滲〔にじ〕む。
オレンジ色に世界がぼやけた。
「なつきさん?」
療養所の簡素なベッドに腰掛けた水江が不思議そうに首をかしげて、息を乱したなつきの表情にすべてを読み取った。
「久一さんね、あんなに頼んだのに……おしゃべりなんだから」
「 嘘! 」
なつきは強く否定して、微笑む水江に駆け寄った。
「嘘でしょう? だって、こんなに……」
触れた手首の細さに、ビクリと出した手を引っ込める。
水江はさして気にするふうでもなく、そのなつきの手に自分の手を重ねた。
「信じない。わたしは信じませんから……!」
だって、信じたらそれで諦めてしまうことになる。
「病気は気からって言うじゃないですか」
「そうね、わたしも頑張るつもりよ。あの子の行く先も楽しみになってきたし……でも、運命を受け入れることも大切だと思うのよ? なつきさん」
なつきはふるふると首を振った。
目を閉じると、頬を涙が伝う。
「あなたのこんな顔を見たくないから口止めしたのに……久一さんたら役立たずなんだから」
もうっ、と姉が意気地のない義理の弟を責めた。
なつきは、唇を噛んで耐える。
悔しかった。
この人には、励ます言葉も力づける必要もない。
逆に、慰められる。
「お願い、そんなに悲しまないで? あなたのお陰で、わたしはいまとても幸せなのよ?」
「そんな……わたし。何もしてません……」
「なつきさんがいなかったら、わたしは貴水と話すことなんてきっとできなかったわ。できるようになったのは、あなたのお陰ね」
「……千住、くんと?」
「ええ。ここ半年のことなんだけど、発作がおきないのよ。あの子の顔つきが変わったせいかと思うんだけど……その理由が可愛いくって笑っちゃったわ!」
楽しそうにくすくすと笑う水江に、なつきは涙を引っ込めて訊いた。
「あの、千住くん。ここに来てるんですか?」
日本に戻っているなんて聞いていなかったから、なつきは愕然とした。
「あら、いやだ。今のは シー ね? 口止めされてるの」
おちゃめに唇に人差し指をあてて、水江は目を細めた。
「ねえ? なつきさん、あなたがいるから貴水のことは心配してないのよ。これからもあの子のこと、よろしくお願いします」
ほっそりとした華奢な身体が、前に折られる。
その小ささに驚いて、なつきは慌てた。
「せ、千住くんはわたしがいなくても大丈夫です! 今だってしっかり――」
「まあ! そんなこと考えているの? あの子の口足らずも困ったものね……残念だけど、なつきさん。ソレは買いかぶりすぎだわ」
「………」
「だって、ねえ。貴水はわたしの息子だもの」
水江は断言する。
あの子は弱いの、だから支えてあげてね……と彼女は消え入るように微笑んだ。
夕焼けに溶けるそれがあまりに儚くキレイで、なつきは 誰か を思い出して「はい」と涙目で頷いた。
fin.
♯20‐1 <・・・ #20-2 ・・・> ♯21
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