「 ダメ 」
どんな顔で言ったのかは、憶えていない。
「千住くんとは、付き合えない」
背中を向けていたから、彼の顔も見ていない。
憶えているのは、最後の短い答えだけ。
「 分かった。 」
と、千住貴水は小夜原なつきに静かに言って、二度とは口にしなかった。
ずっと、聞きたくて聞けなかった言葉。
ようやく彼から聞けたのに、受け入れることはできなかった。
だって、彼は優しすぎるから。
わたしのために、わたしから離れられなくなる……知らないうちに、相手に合わせてしまう彼の残酷なピアノと同じように。
「そんなの、ダメだよ。千住くん」
一人になって、なつきはこらえていた涙を一筋、流した。
それ以上は、流さない。
流す必要がないから。
( あなたは、もっと先に行ける―― )
だから、これは泣くようなことじゃない。
〜 テンペスト 〜
シェルツ・ウィン・フレーバーは、小夜原なつきの目を見て、申し訳なさそうに微笑んだ。
「卑怯な手を使ってしまったね」
どうやら、自覚はあるらしいフレーバー講師に、首を振る。
「いえ、いいんです」
泣くかと、思われた目は笑って、それでも強く唇を噛みしめる。
シェルツはこの時、本当に酷なことを彼女に強いたのだと感じて、ポンポンとその頭を軽く撫でて謝辞を示した。
そうして、彼に会うことを恐れた。
(どうにかして、飛び立つまで彼に会うことを避けれないものか……)
と、到底無理だろうとは解かりながら、真剣に考える。
願わくば、コレが 二人にとっても 正しい選択であるように――。
「小夜原君、これを……ちょっと早いけど、授業の前だから来れるだろう?」
「――先生、でも」
めずらしく躊躇うなつきに、シェルツは軽く片目を瞑〔つぶ〕っておどけてみせた。
「なに、遅れても平気だ。レッスンの一環だと伝えておくから」
手渡された紙をジッと眺めて、こくりと頷く彼女が震えたような気がした。
フレーバー講師の研究室から出てきたなつきを待っていたのは、仁王立ちになった鈴柄愛〔すずつか あい〕だった。
いつもの愛嬌はどこへやら、戦闘態勢に入った目はきつく吊り上がり、なつきを睨んでいる。
「どうしてよ!」と、彼女はなつきの予想した通りのことを口にした。
「聞いたわ、貴水くん留学するって決めたそうじゃない?」
「……そう」
「そう、って小夜さん! 貴水くんに何を言ったのよ、どう考えたっておかしいじゃないっ」
「付き合えないって、言ったの」
「はっ?!」
愛は呆れて、モノが言えなかった。
そんな表情豊かな愛とは対照的に、なつきは淡々とした表情で微笑んだ。
「だって、わたしが好きなのは千住くんのピアノだもの」
瞬間。
パァン、となつきの頬が鳴って愛は吐き捨てた。
「信っじられない」
憎々しげに睨むと、ぼんやりとしたなつきから顔を背けた。
「本当にそんなこと言ったの? ひどいじゃない!」
「うん、ひどい」
「だったら!」
愛は向き直って、なおも言い募った。けれど、なつきの顔を見た途端に何も言えなくなる。
「――でも、それがわたしの 本音 なの」
「小夜さん、見損なった」
ぷい、と怒った顔で言い捨てる。
「小夜さんは、貴水くんを傷つけないと思ってたのに……」
愛の言葉に、ツキンとなつきの胸が痛んだ。
わたしだって。
と、いう想いと曖昧な感触。
(傷つけただろうか……彼を。よく、分からない)
あの時の顔を見ていないから……。
走り去っていく愛の背中を見送って、なつきはその事実にひどく後悔した。あの時、どんなに辛くても貴水の顔をもっとちゃんと見ておくべきだった。
表情の読みにくい彼だけど、目は存外に素直だから……きっとこんなにも中途半端な気持ちを残さずにすんだはずなのだ。
自分が、彼の顔をまともに見れなくなるなんて思わなかった――。
あの眼差しが、なつきをどんな風に映すのか……目にするのが、怖かった。
研究室で渡された貴水の渡独の日付と飛行機の時間に、何も考えられなくなる。
もし。
貴水に拒否をされたら?
「なんで来たんだ」と問われたら? と思うと、とても行く気にはならない。
仕向けたのは自分なのに。
身勝手な心はそれでも「嫌われたくない」と突きつけられる現実から目をそらして、彼から逃げている。
*** ***
扉を開けたなつきは、そこにあった意外な人物の顔に目を見開いた。
大きな荷物を持った彼女は、驚く部屋の主を脇に押しやって上がりこむ。
「お。今から夕飯ですか? ちょうどよかった。差し入れ持ってきたんだ、わたし」
と、手に持ったコンビニ袋を掲げてみせる。ガサガサと中の小さなパックの惣菜や、「冬季限定」とシールの貼られたデザートを広げていく。
「鈴柄さん……何しに来たの?」
「もちろん、泊まりに」
「……何のために?」
なつきの戸惑う声に、ふり返った愛はふわりと笑った。
「明日でしょ? 貴水くんが発つの」
ゴォォォ、と頭上の近いところを鉄の塊が通り過ぎていく。
空港のロビーは飛行機の発着を待つ人で溢れていた。大きなスーツケースを持った団体客から薄い革の鞄だけで行動するビジネスマン、せわしなく行き交う空港関係者。
「向こうに着けば、サキが待ってるから」
「はい」
簡単な言葉をシェルツと交わした貴水に、愛が昨日泊まりこんでマンションから連れ出してきたなつきを引き出した。
「はい、貴水くん……餞別だよ!」
「ありがとう」
そんな二人のやりとりに、引き出された当人はうろたえて俯いたまま唇を噛んだ。
「千住くん……」
「小夜原さん」
いつもの淡々とした喋り方に、少しホッとする。
「学校はどうするの? まだ、籍は残してるみたいだけど。すぐ、戻ってくる?」
「いや……たぶん、やめることになると思う」
頬を親指の腹で撫でられて、耳元に滑りこんできた吐息まじりの言葉に動くことができなくなる。
「だから。いいんだよ、もう……苦しまないで」
「せ、……ッ!」
ちがう、と言いたくて言えなかった言葉。
「さよなら」
( 千住くん! )
ショックだった。
貴水から告げられた別れの言葉〔キス〕が、身体を縛りつけて声を発することさえ許さない。
( いやっ! )
あれから、ずっとまともに顔を見ていない。
気がついたら、彼はいなくて。
ゲートを抜けていくところだった。
「千住くん!」
叫んで、泣いた。
声が枯れてもいいと思った。
彼にこの声が届くのなら……わたしは二度と喋れなくても、後悔しない。
fin.
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