「おじさま! 千住くん来てますかっ」
扉を開け放って駆けこんできたなつきに、久一は目を見開いた。
「なつきさん?」
「千住くん、いますか?」
ハァハァと息を乱した彼女は、唇を噛んでしぼりだすように言った。
「わたし、言わなくちゃ……」
でも、本当は言いたくなかった。
涙がこぼれて、なつきはそんな自分が嫌になった。
「 留学ねえ? 」
泣き出したなつきを見かねて、久一はとりあえず彼女をソファに座らせ温かいミルクを用意して落ち着かせた。
「貴水はそれを断ったのか……なるほどねえ」
焦燥したなつきに、ポンポンと頭を撫でて久一は肩をすくめた。
「なつきさん」
「はい」
「君は、どうしたいの? 本当は」
久一に改めて問われて、なつきは首を振った。
「分からないんです。わたしは……千住くんのためにならきっと留学した方がいいと思う。でも、そうなったらきっと千住くんはどんどん先に行ってしまうでしょう? だから――分からないんです」
身勝手な願いだった。
彼の才能を認めながら、それでも自分に合わせて欲しいなんて……。
「私は、――こう思うよ。聞くかい?」
久一はつとめて明るく咳払いをして、沈みこんだなつきを仰がせた。
ビックリしたように見開く瞳へ、優しく笑う。
「貴水は君がいたから、今のようにピアノに向き合うようになった。だから、なつきさんが罪悪感を持つ必要はない、と」
「でも……!」
人差し指で制されて、なつきは黙りこむ。
「どちらにしろ、今の君は貴水には見せられないよ……刺激が強すぎるからね」
「 確かにね 」
と、入り口の扉に立っていた貴水が二人を見咎めて「ノックはしたよ」と主張した。
〜 Je te veux2 〜
どこから聞いていたのか、貴水は慌てたなつきに不思議そうに首をかしげて「先刻〔さっき〕だけど……」と参考にならない答えを返した。
とは言え、反応が薄いところを見ると、本当につい今しがた入ってきたばかりらしい。
ホッとして、逆に剣呑とした彼の視線に戸惑う。
「私は、……お邪魔みたいだな」
交互になつきと貴水を見ていた久一は、そんなことを言ってそそくさとソファから腰を上げた。
「社長室」から出ていこうとする社長に、なつきは焦って立ち上がる。
「そんな、おじさま!」
「じゃあ、私は席を外すからごゆっくり」
と、貴水の横を容易〔たやす〕くすり抜けていく久一に裏切れた気持ちになる。
(ずるい! おじさまっ)
窮地に立たされたなつきは、目の前にまでやってきた貴水に蛇に睨まれた蛙よろしく動くことができなった。もちろん、けっして貴水がなつきを睨んでいたワケではなかったが。
むしろ、心配そうに覗きこむから頬が熱くなる。
「泣いていたの?」
と、訊かれて思わず頬をぬぐった。
「な、泣いてない!」
あまりに下手な演技に、ぷっと彼が吹き出した。
「千住くん!」
笑うなんてあんまりだ、となつきは睨んだが、貴水は「ごめん」と言うだけで笑いを引っこめることはなかなかできないようだった。
「何か言われた? あの理事長に」
「 なっ! 」
(なんで、知ってるのよ!)
やっぱり、最初から聞かれていたのではないか? となつきは疑った。
「当たりか」
なつきの反応に納得した貴水は、目を細めて笑う。
「小夜原さんのところに行くんじゃないかと思ってた。だから、君がそんな顔することはないんだ」
困ったように呟いて、彼はなつきを静かに抱き寄せる。
「僕が欲しいのは、君だから」
( ……… )
「千住くん……」
ぎゅぅぅと抱きついて、なつきは顔を彼の胸に押しつけた。
( ダメ )
そんなの、やっぱりダメだよ。
きっと、ひどい顔をしているだろう自分の表情を隠して、なつきは小さく言い訳を口にして彼の抱擁に身を任せた。
「小夜原さん、何か言った?」
「ううん、いいの」
顔を上げたなつきは、微笑んで 嘘 をついた。
とても、苦い嘘を――。
本当はよくなんてない。
でも。
( これが 最後 だから )
最後の、わがままだから。
だから。
今だけは、どうか、そばにいて……。
ねえ、いいでしょう?
fin.
♯18‐1 <・・・ #18-2 ・・・> ♯19
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