千住貴水が留学を断った話は、あっという間に大学中に広まった。
それは、留学の話が浮上した時よりもセンセーショナルで、騒ぎ立てる数も半端ではなかった。音楽で身を立てることを夢見る学生たちが集うこのカザバナで、その足がかりともなる留学に誘われて断るような人間はあまりいない。
もちろん、例外はあるが……特異な姿と類稀な音色を持つ彼が断る理由が、彼女だということは誰もが知っていた。
長い黒髪と、強い眼差しを持った彼女――小夜原なつきにしか、彼を引き止めることはできないだろう。
そして、
たぶん、逆も彼女にしかできない。
〜 Je te veux1 〜
なつきのところに来て、鈴柄愛は「ほらぁ」と満面の笑みで胸を張った。
「わたしの言ったとおりだったでしょ? 小夜さん」
昼からの講義のため荷物をまとめていたなつきは、やけに上機嫌な愛に呆れてしまった。貴水が留学しないことが嬉しいのかもしれないが、ここまで恋敵である自分に友好的なのもどうかと思う。
(それも、わたしが引きとめたから留学を止めたって嬉しそうに胸を張られても……どうとらえていいか、分からないじゃない)
ある意味、宣戦布告とも取れるそれに、なつきは警戒して言葉を紡ぐ。
「それって、素直に喜んでいいのかしら。鈴柄さん」
「どういう意味?」
きょとんとして、愛は首をかしげた。
「だって、あなたって千住くんのこと……好き、なのよね? 千住くんが傍にいた方がアタックしやすいから、だから、喜んでいるのかと思って」
「もちろん、そうよ」
と、あっけらかんと肯定して愛はなつきを見返した。
「でもね、小夜さん。貴水くんが小夜さんを好きなのは、よく知ってるし……小夜さんが、貴水くんの 彼女 だって認めてもいるのよ」
少し、寂しそうに笑って言う。
「まあ、諦めてもいないんだけどさ」
すぐに元の彼女に戻って、愛はなつきの肩に手を置き「複雑ね、お互い」と苦笑してみせた。
「サヨハーラ!」
その声に、なつきと愛がふり向くとそこにはアンリ・サキ・シューリッツが深刻な顔をして、立っていた。
「お願いシマース!」
どこで習ってきたのか、手のひらと手のひらを合わせて頭を下げる彼女に、なつきは慌てて周囲を見渡した。教室にはまだ結構な人数の学生が残っていて、興味津々と耳をそばだてている。
何しろ、噂の渦中にある中心人物が二人、ここに揃っているのだ。
「や、やめてください。困ります」
と、なつきが言えばアンリは薄い青の瞳はきょとんとする。
仕草のひとつひとつが、どこか幼いというか、可愛いというか。
「困る? ワタシも困っているのデス。助けてクダサイ」
にこ。
と、笑った彼女の顔は脅迫に近い無邪気さで、なつきに 助け を求めてきた――。
*** ***
「アナタのことは、ウィンから聞いてマス」
「センジュのステイだって」
「――それに、よいピアニストだって。すっごくホメてマシタよ?」
「ダカラ、ワタシ。アナタにお願いしたいのデス」
「センジュは、優しい。そうデショウ? サヨハーラ」
長い銀の髪の持ち主から発せられた言葉に、なつきは思いのほか動揺した。
「そんなこと! 言われなくてもっ」
「ゴメンなさい……でも、アナタにしかお願いできないのデス」
優しく手を取ったアンリの手を、ふり払ってハッとする。
「すみません、あの、次の授業があるので……失礼します」
ぺこり、と頭を下げてなつきは逃げるようにその場から離れた。
アンリの手をふり払った手がわなないて、その震えを押さえるようにもう一方の手を重ねる。
(分かってる。そんなこと、分かってるんだから――)
早鐘のように胸が鳴って、なつきは走り出した。次の授業に出ることは、彼女にはできなかった。
自主休講を決めてなつきがやってきたのは、千住久一のところだった。
『千住プロダクション』の事務所が入っているビル内には、簡易な設備ながらスタジオが用意されていて今日の講義が午前中で終わっている貴水は、ここに来ているハズだった。
音響設備の整ったここでなら、ピアノが自由に弾けるから――。
to be...
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