唐突な話だった。
けれど、いつあってもおかしくはない話だった。
こんなに早く浮上するとは思わなかったけれど……彼のためにはきっといい。
*** ***
「小夜さーん!」
鈴柄愛は、いきなり教室に飛びこんできたかと思えば、小夜原なつきに泣きついた。
予想もしていなかった事態に驚き、抱きつかれた体勢を何とか整えると、なつきはため息混じりに訊く。
なんとなく、予想はついていたけれど……。
「どーしてそんなに落ち着いていられるのよ、小夜さん! 聞いてるんでしょ?! っていうか、その場にいたくせにっ。貴水くんのドイツ留学の話!」
何とかしてよ! とばかりに迫る愛に、なつきはそんなこと言われてもと困った。
「だって、それは……わたしが口出しすることじゃないから」
「どーしてよ?! 好きなんでしょ。付き合ってるんだったらなおさら、言うべきじゃないのっ」
「……好きだけど。付き合ってるってワケでもないのよね」
さめざめと派手に嘆く彼女に、ある意味羨ましさをにじませてなつきはポツリとこぼす。
「な゛ん゛がい゛っ゛だ?!」
「え? ううん、べつに。わたしが千住くんを止めたところで、あまり変化はないと思うんだけど」
なつきが誤魔化すように言った言葉に、愛はバッと顔を上げ、信じられないと襟首をひき掴まんばかりの勢いでまくし立てた。
「まさか! ソレ、本気で思ってんのっ」
目を白黒とさせるなつきを見て、愛はそれまでの悲愴な表情を一転させて呆れてみせた。
「そんなの、変化あるに決まってるじゃない。小夜さんが止めたら、貴水くんは行かない――悔しいけど、賭けてもいいわよ」
〜 タイスの瞑想曲 〜
その日は、久方ぶりに貴水と外で食事をして、なつきは彼のマンションに立ち寄った。
改めて、計算してみるとあの口喧嘩の前、一ヶ月ほども貴水のマンションに立ち寄っていなかったから……おおよそ、二ヶ月ぶりということになる。
その二ヶ月前の最後に訪れた日は、めずらしいことに二泊したのだ。
それまで、一ヶ月に一度とかの頻度……それも、なし崩し的にそういう雰囲気になって身体を重ねあったことは何度かあったが、連泊でそういう関係を持ったのは初めてだったように思う。
(そうだ――あの日から、千住くんはおかしかった)
必要以上になつきを部屋に入れないようにしたし、接し方もよそよそしくなった。
だから。
だからこそ、なつきは不安になったのだ。
彼が――。
「 小夜原さん? 」
間近に、覗きこまれてボーッとしていたなつきはビックリした。
コーヒーカップを受け取って、「あ、ありがと」と慌てて礼を言う。
「どうかした?」
と、なつきの様子に怪訝な表情〔かお〕をして貴水は訊いた。
「べつに、何でもないの」
コーヒーカップの熱を手のひらに感じながら、なつきはポツリと答える。
すると、さらに包帯の下の表情が分かるくらいに渋面になって、ふとまったく違うことに声を上げた。
「そういえば。小夜原さん、僕に何か言いかけなかった?」
「え?」
「あの時。フレーバー先生が来る前」
貴水の何でもないことように告げる言葉に、なつきは固まり「う、……ん」と歯切れ悪く頷いた。
思い出さなくてもいいのに、とさえ思う。
「それなんだけど、……大したことじゃないのよ。たぶん、もう必要ないし」
「必要ない? どうして?」
貴水は不思議そうな顔をして、やけにしつこく追求する。
いい加減、困ってなつきは笑って誤魔化そうとした。
「もう! いいじゃない。気にしないでよ、千住くん」
が、顔を上げた先にあったのは、やけに怖い顔をした彼の顔だったからなつきはどうしたらいいか分からなくなった。
こんな彼はあまり、見たことがない。
「千住くん?」
彼の手が伸びて、手首を引き寄せられる。
思いがけず、ソファの上で抱かれたそのよく知る胸の中で、なつきはくぐもった貴水の言葉を聞いた。
「……どうして何も言わないんだろう、君は」
まるで責めるような言い方に意味が分からなくて、なつきは身じろいだ。
「何もって……千住くん?」
仰ぐと、闇の瞳が静かに見下ろして、ため息とともに告げる。
「僕は留学なんてしない」
なつきは目を見開いて、息を呑んだ。
「――どうして?」
信じられない言葉だった。
ピアニストとして、おいそれと掴むことのできない千載一遇のチャンスを事も無げに放棄するなんて、なつきには考えられない。なのに、貴水はまるで それ に躊躇いがないようだった。
「 だって、君がいない 」
と、彼は当たり前のように口にした。
「 嘘 、でしょう?」
なつきは、言葉を失ってゆるゆると首を振る。そんなにも好かれている自覚なんてなかった。
どちらかと言えば、自分ばかりが 好き だとさえ思っていたのに?
すると、そんななつきの心を察したのか、貴水は自嘲気味に笑って「だから、君は何も分かってないんだよ」と白い彼女の首筋に舌を這わせて、静かに歯を立てる。
「 は 」
カリ、とした痛みにヒクリと反応して、なつきは貴水の背中に手を廻してしがみついた。
「小夜原さん、君がいないところになんて僕は行かない」
膝を立てたなつきの脚を開いて、間に入るとその内側にそっと指をすべらせる。
「……せ。千住く、ん!」
勝手に震える身体。
こぼれたなつきの涙に、貴水が親指で拭いながら訊いた。
「どうして、泣くの?」
「分からない」
自分でも理解できなくて、なつきは瞬〔またた〕き、戸惑った声を上げた。
涙を隠すようにギュッと抱きついて、貴水の肩に頬を預けると、はだけた胸が重なり合って苦しくなる。
彼の言葉が。
キスが。
求めてくれる心と、愛撫する指先がとても心地いいのに。
不安だった。
抱かれている間、とめどなく涙が流れていく。
なつきはそれが、嬉しいからなのか、苦しいからなのか、それとも単に身体が快楽に泣いているだけなのか……すがる頭で考え、貴水の醜く引きつれた背中に廻した手を甘い叫びとともに強く抱き寄せた。
fin.
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