ホールの席は、ほぼ野次馬で埋まってしまった。
大学祭のあとだったのが幸いして、ほどなく用意された舞台は、練習用のこじんまりとしたホールだった。八尋と貴水のデュオ演奏は、貸しきって催されることになったそこでも狭すぎるほどに人を集め、けっして小さくはないホールに立ち見の見物者まで現れた。
「はー、参った参った」
舞台の袖に入ってきた鈴柄愛に、なつきは呆れて思わず声をかけてしまった。
「何、してるのよ。一体……」
「何って、宴会部が取り仕切る以上、混乱は恥だからって日間くんに頼まれたのよ」
先ほどまで配っていた整理券をゴムでまとめて、愛は当然のように答える。
「なかなか盛況よね〜、整理券作っといて正解だったわ」
二人のトップ奏者にくわえて、高い話題性といい……愛の言うとおり、彼女たち宴会部のサポート要員がいなければ小さな混乱は避けられなかったかもしれない。良くも悪くも順調に演奏の準備が整っているのには、感動さえ覚えるが……。
「みんな、暇なんだから」
と、なつきはほとほと嫌になってかぶりを振ると、いまや満席となったホールに情けない声をあげた。
最初に響いた、音で勝負は決まっていた――。
なつきはその演奏に耳を疑って、確信する。
空恐ろしいほどの才能。
そして、残酷な優しさの持ち主だと思った。
〜 ラ・カンパネルラ2 〜
「 バカ! 」
包帯をほどき、手を丹念に触診するなつきに貴水は戸惑い、それでもふりほどくことはしなかった。
ただ、
「小夜原さん」
と、暗に平気だからとでも言うように彼女の手に手をかけて、止める。
その彼の まったく 反省していない顔にギッと睨みをきかせて、なつきは「何考えてるのよ!」となじった。
「ピアニストの手なんでしょ! 殴るなんてどうかしてるっ」
演奏が終わった時点で、報復は十分に果たされていたはずだ。
八尋は舞台袖に戻ってきた時、「完敗だよ」と手を差しのべさえしたのに……「まだだ」と言って殴りつけた貴水をなつきは理解できなかった。
「ピアノ、弾けなくなったらどうするのよっ」
「……君ほどではないと思うけど?」
なつきは貴水の手にある結び目をほどいていた手を止め、
「いっ!」
てぇ……と、彼女の手によって力いっぱい絞られた手首に貴水が顔をしかめた。
なつきは顔を上げずに、包帯を縛る。
演奏を終えたあとの、しっとりと汗ばんだ貴水の手のひらを睨んで黙りこむ。
「小夜原さん、痛いんだけど」
「千住くんなんか、……鬱血しちゃえばいいのよ!」
「……それは、ちょっと」
困惑顔で額面どおりに言葉を受け取る貴水が、なつきには腹立たしくて仕方なかった。
彼には全然通じない。
心配だったのに……素直に言えない自分にも嫌になる。
「だいたいね、これくらいの痛み何よ。女の子のハジメテの痛さに比べたら、カワイイものだわ。千住くんも我慢すればいいのよ」
「……へぇー、あ。ごめん」
他人事のように相槌を打って、なつきの恨みがましい上目遣いに気づくと貴水は思わず謝った。
あの時のことを言っているのだと、理解する。
「痛かった? そんなに?」
「 すっごく 痛かったわ」
「そっか、ごめん」
もう一度謝って、なつきを見る。
長く伸ばされた前髪から覗く闇の瞳は、あの時の彼とはちがうのに妙に重なって見えて、見つめられるとそれだけで熱くなった。
(って、一体何の話してるのよ。わたしは――)
「あのね。千住くん……」
彼の袖の裾をつまんで、頬を染めたなつきは何かを言おうとした。
が。
「目の毒だよ? お二人さん。ここは公衆の面前なんだから」
「先生」
可笑しそうに近づいてくるシェルツ・ウィン・フレーバー講師に、なつきも貴水も目を見開いた。
どうしてここに? と、訴えてくる二人に笑って、「当然だろう」と言い切った。
「教え子の晴れ舞台だ。聴かないワケにはいかないだろう? ……それだけの価値もあったしね。千住君」
「……何ですか?」
案外、野次馬なんですねとでも考えているように貴水は嬉しそうな師を見て、眉を寄せた。
シェルツの後ろに立っていた見慣れない人影が笑う。
「 Win! 」
と、少女のようなはしゃいだ声で彼女は言って、前に飛び出してくる。
『早く紹介してよ! 待ちくたびれちゃったわ』
その言葉は……聞きなれない異国の言葉。ドイツ語だと、分かったのは次のフレーズでだった。
『 Guten Tag! Ich heisse Anri Saki Syurits. 』
〔はじめまして! アンリ・サキ・シューリッツよ。〕
おそらくは、フレーバー講師と同年代だと思われる女性だったが、長い銀髪と薄い青の瞳は若々しく輝いていて相応の年齢を感じさせなかった。
差し出された手に、戸惑う。
「先生、この方は……?」
「私の昔馴染みのサキ。ドイツで音楽学校の理事長をしてるんだよ、これでも」
『ま!』
ニュアンスで何を言われたか察したアンリは、けたたましくシェルツに文句を言っている。
それを笑ってかわし、フレーバー講師は サラリ ととんでもない提案を口にした。
「彼女が、君を欲しいと言われてね。どうだろう、留学する気はないかい? 千住君」
fin.
♯16‐1 <・・・ #16-2 ・・・> ♯17
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