Moonlight Piano #15


〜風花音楽大学二回期・後期課程は連弾〜
 ♯14 <・・・ #15 ・・・> ♯16



 こんな喧嘩は初めてだった。

 千住貴水の静かな闇の瞳が、無表情にこう言ったのだ。
「小夜原さんは何も知らないのに、知ったようなことを言うんだね」
 と、彼にしてはあからさまで 痛烈な 厭味。
 凍りつくような眼差しに、思わず売り言葉に買い言葉で応戦してしまったことを後悔しながらも、今やり直したとして上手く交わせる自信はなかった。
 だって、悲しかった。
 そんなことを、千住くんから言われたら……わたしは。

 じゃあ、わたしはどうしたらいいの?



〜 革命のエチュード 〜


「 千住くんのバカ 」

 ピアノを弾きながら呟いたなつきの声に、連弾していたピアノの声が止まる。
 講師が、困ったように肩をすくめてなつきを見た。
「小夜原君」
「はい、すみません。つい……」
「困ったねー?」
 シェルツ・ウィン・フレーバーは、そう本当には困っていない口調でなつきと連弾していた男子学生に目配せして、
「千住君、君も――一体、何があったんだい?」
 と、二人を交互に眺め、流暢な日本語で訊いてくる。
「もちろん二人の私情に立ち入るつもりはないけれど、レッスンに影響するようだとそうも言ってられないからねえ?」
 なつきは、フレーバー講師の言葉にびっくりして顔を上げた。
 やれやれと肩をすくめる講師に戸惑い、隣に座る貴水がどう思っているのか、と不安になった。彼のことだから簡単に自分との関係を断ってしまうのではないか、とさえ思う。
 直接確かめるのが怖くて、なつきはフレーバー講師に訊いた。
「それって、先生。つまり、わたしたちに別れろとおっしゃるんですか?」
 すると、金色に近い赤毛の講師は緑の瞳を見開き(おや?)という表情をして、くすくすと笑った。四十を過ぎたドイツ系アメリカ人の顔に優しいシワが刻まれる。
「私の記憶では、まだ二人は付き合っているのではない……と聞いたような気がするのだけど。違ったかな?」
「……いいえ」
 なつきは唇を噛んだ。
 確かに、そうだ。自分たちは付き合ってさえいない。
 だから、貴水がなつきに対して別れようと言う必要もない。もともと、そういう関係ではないのだから――。
「あー、小夜原君。そんな顔しないでもらえないかな?」
「え?」
 苦笑いをしてシェルツは、頭をかいた。
「私はべつに、小夜原君が心配しているようなことを勧めるつもりはないんだよ。込み入ったことだし、ね? ただ、いつかはっきりさせた方がいい、と思うんだけど……二人のためにも」
 だから、そんな怖い顔しないで……と、まるで怯えたように言った。
(怖い顔?)
 なつきは、自分の顔に触れて首をかしげた。
 そんな顔をしていたつもりはないのだけれど、知らない内に強張っていたのかもしれないと笑ってみる。

「 先生 」

 と、貴水が開いていた楽譜をまとめて口を開いた。
「今日のレッスンは、ここまでですね」
 フレーバー講師の答えを待たず、彼はチャイムが鳴るのと同時に立ち上がると、なつきの手を引いてそこから彼女を連れ出した。



 貴水に手を引かれて、なつきはまろびそうになりながらその歩調についていった。
 捕まれた手首が痛い、と思いながら、離してほしいとはけっして思わなかった。
 レッスン室の並ぶ棟の廊下を過ぎて、大教室につながる棟に入る狭間。エレベーターの奥にある、あまり人の来ない階段のエアポケットへ引きずりこまれると、貴水はなつきを階段裏の壁へと押しつけて逃げることを許さないように両脇を腕で固めた。
 長く伸びた黒髪の間から覗く闇の瞳は、静かになつきを責めた。
「小夜原さん、だから君は何も分かってないって言うんだ」
 ハァ、と息をついて貴水は目を伏せ、ふたたび開いて彼女を見る。
「そんな顔を僕に見せないで……迂闊だよ。君は」
 なつきの頬を撫でて、いつからこぼれたのか……なつきの大きな瞳から流れた大粒の澄んだ雫を親指で拭う。
「千住くんが悪いのよ。教えてもくれないのに、分かるわけない。分かるわけないじゃないの!」
 楽譜の入ったケースを手から落として、なつきは貴水の胸を叩いた。
 その目は、涙に濡れながら強く彼を睨みつけて微塵の弱さも見せない。

「 バカ! 」

 ポカポカ、と胸を叩きなじるなつきの手を取り、貴水は抗〔あらが〕う彼女の唇を塞いだ。
「ん……ふー、んん」
 浅く、次第に深くキスを受けてなつきは涙を流しながら、それでもあっけなく陥落する自身に呆れた。
 脳天に霞がかかって、指先から次第に力が抜けていく。
 頭上から、階段を伝って降りてくる生徒の足音が聞こえて、それが次第に近くなる。
 うっすらと目を開けると、目の前の貴水と目が合って身じろいだ。
「せ、千住くん!」
 唇が離れた瞬間になつきが上げた声を、貴水が目で制止した。
(人が来るのに……)
 そう思いながら、重なる彼の唇から逃れることもなつきにはできなかった。
 近くなる足音は、すぐ頭上にきて二人の横を足早に通り過ぎていく。

「次は、何の授業?」
「ソルフェージュだってー、前の課題提出やってきた?」
「わー、そうだった! 見せて見せて!」

 女学生三人がじゃれあいながら、遠く離れていくのを耳にしながらなつきはビクリ、と身体を這う感触に緊張した。
 背中から下にもぐりこんだ彼の手は、なつきのキャミソールの下に躊躇いもなく侵入した。素肌を這う細くしなやかな指先は冷たく、火照る身体には刺激が強すぎる。
 見つめ合いながら、貴水のもう片方の指はさらに信じられない動きをした。
 背中を這っていた腕は立つ力をそがれたなつきの腰を支え、それまで服の上から胸をまさぐっていた腕が下に伸びる。
 太腿の内側をなぞって、上がる。
「ふっ! んー……」
 プリーツのスカートをまくり上げられ、下着の上から触られる。
 唇が離れても、しばらく声を出すことができなかった。
「僕は いつも 、君が欲しいと思ってるよ」
 言って、貴水はわずかに息を乱し、なつきから離れた。
 ズルズル、となつきの背中が壁を滑り、ぺたんと冷たいフロアに座りこむ。
「知らなかったろう?」
 と、彼はキレイに笑った。
「だから、小夜原さん。これからは、僕に近づいたらダメだよ」



 離れていく華奢な長身を眺めて、座りこんだままなつきは呆然と呟いた。
「び、びっくりした」
 もちろん、貴水とは恋人同士ではないものの経験はそれなりに積んでいるから驚くことではなかった。が、それでも自制心の強い彼のこと、学校で……しかも、人の目のあるこんな場所で迫られたことはなかった。
 どちらかと言うと、なつきから迫ることの方が多かったくらいなのだ。
 なのに。
 貴水の激しさに、驚いた。
(でも、……わたしも)
 際どい、もう少しで導火線に火がつくところだったなどと、彼は知っていただろうか?
(たぶん、知らない。彼は――)
 なつきが求められて嬉しかった、なんて思いもしないにちがいない。
 ため息をつく。

「そういうところが 千住くん なんだけど」

 女の子はね、男の子より貪欲なのよ?
 近づいたらダメ、なんて言わないで。


fin.


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