生まれる前から、彼は ピアノ を知っていた――。
葉山家のダイニングはフローリングだった。一式のソファとテーブルがあって、ミディアム級のグランド・ピアノがその中に当たり前のように存在していた。
だから、その黒い音色を奏でる奇妙な器〔うつわ〕を、彼はいつの間にか遊び道具にしていて、小学校にあがる前には類稀な才能をすでに現していた。
「おかあさん!」
父親と連弾をしていた彼は、まだ六歳になったばかりだった。
プロのピアニストである父親と連弾できるまでに上達した幼い彼は、まるで乾いたスポンジが水を吸い上げるように父親の音色を耳で覚え、習得し、自分の技能へと変えていく。
時折、それは残酷なまでに顕著に現れた。
が、もちろんプロのピアニストである父親よりも上手だったワケではない。
まだ、発展途上の彼のこと、指先はまだすべての鍵盤を卓越するには幼かったし、経験の浅い彼には奏でられる旋律に深みがなかった。
「おとうさんにほめてもらったんだよ。ホラ」
そう言って、ひとつの短いフレーズを幼い指で押さえ、「ね?」と嬉しそうに笑う。
今までは、奏でることができなかった鍵盤に指が届くようになったのだ。
それは、子どもの成長であり、ピアニストとして成長していく息子の姿だった。
「よかったわね、先生も貴水にはショパンを弾かせたいそうよ……もうちょっと指が届くようになったら、きっと教えてもらえるわよ」
「うん! ぼく、おとうさんみたいにうまくなりたい」
目を輝かせて、父親に憧れる顔はあどけなく、子どもらしい所作で手をかかげる。
「 はやく、おおきくならないかなあ。ぼくのゆび 」
〜 小フーガ ト短調 〜
「バカね」
まだ高い椅子でプラプラと足を遊ばせる幼い彼に、笑ってみせる。
「そんなに急がなくても大きくなるわよ。それより、ご飯食べちゃいなさい」
「はーいっ」
放っておくと、ご飯の時間さえ忘れてピアノに没頭する彼は、確かに父親の血を受け継いでいるのだろう。
困ったものね、と肩をすくめて、椅子から飛び降りた彼の背をキッチンへと追い立てた。
気づかなかった、それは――罪だろうか。
それとも、本当は、知っていたのだろうか。
「一緒に死のう」
と、炎の中で求められた時、ホッとした。
いっそ、死んでくれたら楽になる。
けれど、安堵しながらも執着していた。
「貴水は助からない。もう、無駄だ……」
虚空を睨んだ口が言う絶望的な言葉に、かぶりを振って「いいえ、いいえ」と抗〔あらが〕った。
腕に抱く小さな体は、酷い火傷を負っていて生きているのか死んでいるのかも……その時は分からなかった。
「助けます! この子だけは……この子は 貴方 ではないのだからっ」
「 ――― 」
その時の表情、耳を焼く音、髪を焦がす熱風を憶えている。
どう表現すればいいのか、怒りも悲しみもなかった。その瞬間にあったのは、感情の削げ落ちた顔。
と。
その時は、思った。
でも。本当に――?
本当に、そうだったろうか? あの人は。
分からない。
炎がすべてを別ち、死んだ葉山治貴が何を思っていたのかは、今となっては知る術がない。
それは、ただの願望だったのかもしれない。
どちらにしろ、これは 報い なのだろう。
息子の傷を見るたびに、苛まれる心――自分で自分が許せなくなる。
心臓が止まりそうなほど。
*** ***
ゆるやかな陽気を注ぐ窓を背にして、翳〔かげ〕るように葉山水江〔はやま みずえ〕は笑った。
「貴水は元気にしてますか? なつきさん」
「……はい。まあ、相変わらずと言えば、相変わらずなんですけど」
言葉を濁して、小夜原なつきは頷いた。
風花音楽大学に入学して、一年を過ぎて……早、二回期も半分を折り返そうとしていた。
今はちょうど、夏期休暇の真っ只中で貴水の母親である水江とはじめて会った季節だった。
「まあ……そう、困ったものねえ」
そう、心配そうに眉間にシワを寄せる水江は、ごく一般的な息子を思う母親だった。
「レッスンを受ける先生を変えてから、頑張ってるって聞いてましたのにあの子ったら……」
「あ。いえ、ちがいます。そっちは頑張ってるんですけど」
「え?」
不思議そうに首をかしげる水江になつきは頬を染めて、目をそらす。
(まさか、友達関係から進展しない……なんて不満を、告白するワケにもいかないし)
シェルツ・ウィン・フレーバー講師にレッスンを移ってから、千住貴水のピアノに対する姿勢は一変した。ひた隠してきたその旋律を公の場でも弾いてみせ、正当な評価を受けることをいとわなくなった。
周囲の学生は、彼の演奏に驚愕し、あるいは震撼さえ覚えて騒いだほどだ。
が、それも半年も経てば落ち着いてくる。
彼を取り巻く環境は、大きく動いている。だと言うのに、まだなつきは聞いていなかった。
貴水の口は重く、その奥に潜む闇はあまりに深い。
「大丈夫よ? なつきさん」
おっとりとおだやかに笑ってみせた水江がなつきに言うと、やさしく肩を撫でる。
「貴水は、わたしよりもあなたの方を信用しているわ」
少し、寂しそうに彼女は胸を張った。
そうかなあ? と水江と会った日のことを思い出して、なつきは目の前の男を仰いだ。
華奢な長身の彼は、醜悪な肌の傷を白い包帯で隠した格好で立っていた。細く長いしなやかな指はピアニストのそれで、長い黒髪は肌の傷と深い闇の瞳を周囲から遠く隔てていた。
「何?」
と、貴水はそんななつきの眼差しに不思議そうな顔をした。
「何でもない」
首をふって、刺すような日差しの中、貴水をやっぱりマジマジと眺めてしまう。
「……だから、何? 小夜原さん」
「暑くない? その格好」
――確かに。
湿度の高い日本の夏に貴水の姿はまるで拷問のようだった。
慣れているのか、単に表情のほとんどを包帯で覆ったためか、彼がことさらその苦行に辛そうにしたことはなかったが……辛くないハズがない。
「………」
何を今更、というなつきの疑問に貴水は絶句して、不審そうに眉を寄せた。
「どうして、そんなことが気になるの?」
と、逆に問い返す。
「べつに。千住くんて、僧侶みたいだなって思って」
「本当に変だよ、小夜原さん。どうかした?」
「無心っていうか、欲がない? ねえ、わたしのこと好きって言ったよね。――なのに。 欲しい とは、思ってくれないの?」
言って、なつきは蒸せるような熱気の中、貴水の答えに凍りついた。
fin.
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