長い夏期休暇が終わって、風花音楽大学は俄然活気づいた。
十月になれば、文化祭ならぬ音楽祭が開催される。その準備に追われながら、前期日程の最終試験も催され、音大生としては楽しいながらも、厳しい試練の時を迎えていた。
バタバタと、廊下を走って、彼女はスカートの裾を跳ね上げた。
前期試験日程、最終日。
ともなると、行きかう人波も騒がしい。
「 千住くん! 」
〜 愛の夢 〜
練習用のいつものアンサンブル室の扉をバタン、と開けて小夜原なつきはそこでピアノを弾く千住貴水に駆け寄った。
光のプリズムと、染み入るような旋律が満ちていく。
「本当なの!」
と、説明もなく訊いてくるなつきに、貴水は苦笑して……しかし、彼女が息せき切ってやってくるのを半分は予想していたとばかりに目を細めた。
「何の話かな? 小夜原さん」
「分かってるくせに! フレーバー先生に変わるって本当なの?」
「まあね」
キッと睨み下ろしてくるなつきに、笑って貴水はピアノの鍵盤から指を離した。
乱反射して、透き通る音色を奏でていたピアノは黙りこみ、代わりに奏者であった彼が話しだす。
「個別レッスンの先生を替えるのは、そうめずらしいことじゃないし……彼は執念深いし、それに君の先生でもあるから――それもいいかと、思ったんだ」
「………」
普段の変わらない調子で話す貴水を見て、なつきは目を伏せる。
彼女の指導をしている個別レッスンの講師、シェルツ・ウィン・フレーバーと言えば、風花音楽大学のピアノ科において有名なピアニストだった。
その腕もさることながら、生徒への指導能力の高さや見識眼の鋭さには定評があり、彼が見込んだならピアニストとして大成するとさえ言われるほどの……ピアノ科の生徒からすれば、憧れの先生だったりする。
「――だって、あんなに避けてたのに。どういう風の吹き回し?」
風花音楽大学に入学した当初から、フレーバーは貴水の指導を志願していた。
それは、貴水の入学試験の実技演奏を彼が試験官として耳にしていたからであり、頑なな貴水の態度に指導官としての使命に火がついた結果だった。
なつきが驚くのも、無理はない。
自分のピアノを嫌悪する貴水が、まさか指導熱心な先生を選ぶわけがないのだ。
フレーバーのレッスンを受けるということは、貴水とて片手間な演奏をして逃れられる相手ではない――それくらいのことは、分かってるはずだ。
だからこそ、今まで断っていたのではなかったか?
「心配しなくても、いいよ」
不安そうに向けられたなつきの眼差しに、貴水が静かに言った。
「……べつに心配なんてしてないわ。千住くんには相応だと思うもの」
今までが分不相応なのよ、と暗に責めて、呟く。
「ごめん。ただ僕は君が望むなら、頑張るのもいいかと思ったんだ。だから……」
なつきを見上げて、貴水は考えた。
不安はある。けれど、なつきならきっと、大丈夫だとも思った。
「 だから? 」
「だから、君がやめろというなら――僕は、やめるよ」
「 小夜原さん 」
「なによ」
と、貴水の呼びかけに、なつきは不機嫌に応じた。
彼の頬を引っぱたいた手のひらが、痛い。
さすりながら、それでも腹立たしさは治まらなかった。
「たとえばの話だよ、一応」
「それでも! 失礼な話だわ」
貴水のほっそりと長い指が、なつきの手をとって大事そうに包む。
「そうかもしれない。いや、きっとそうだろうな……大丈夫?」
「馬鹿」
貴水の手の温度を感じて、なつきは「続き、弾いてよ」と涙目で微笑〔わら〕った。
*** ***
ふたたび奏でられる透き通ったピアノの歌声に、なつきは際の壁に寄りかかって目を閉じる。
初めて貴水に出会った時から、心奪われた音色。圧倒的なまでの才能と、彼というかけがいのない存在。
『あの子は、化け物よ。それでも、あなたはピアノを弾かせたい?』
貴水の去った病室で投げかけられた葉山水江の問いかけは、一人息子に対する憎悪で投げられたものではなかった。そう、どちらかと言うと憐れみに近い。
ピアニストとしての類稀な才能を持ちながら、彼はその代償として親の「愛」も、自らへの「夢」も失って深い「絶望」を味わっている。それがトラウマとなって、今なお縛られ苦しんでいる。
その身に纏う、白い包帯は「過去」の束縛の象徴だった。
ピアノを弾くことに苦痛を伴いながら、彼はピアノから逃れられない。
貴水にピアノを自由に弾いてもらいたいと思うのも、なつきの正直な気持ちだ。けれど、それと同じくらいに嫉妬し、自分にその才能があればと羨望と欲に眩〔くら〕むのも事実だった。
「――本当に、憎らしいほど上手いんだから……」
彼の演奏に、神経が粟立っていく。
ゾクン、ゾクンと反応する。
なつきは目を開くと、ピアノに向かう貴水を映して「いーだ」と歯をむき、――騒ぐ、胸を誤魔化した。
fin.
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