なつきの要求に、千住貴水はまっすぐに彼女をとらえて絶句した。
もちろん彼女の言い分は解かる。
付き合ってもいないのに身体だけ繋げて、「それだけ」で満足しろという方が土台無理な話だ。
しかし。
小夜原なつきの要求は、いつだって貴水の予想の範疇を超えている――。
「千住くん?」
黙ってしまった貴水を見上げたなつきの瞳が揺れて、不安そうに訊く。
「ダメならいいのよ、もちろん」
「いや、べつにいいんだけど……ただ」
困惑を隠せない貴水はそれでも、なつきの要求にはいつものように従ってしまう。強気な彼女の揺れる瞳には、とことん弱いのかもしれなかった。
「ただ?」
「……ほとんど火事で焼けてるからさ。昔の写真なんて数枚しか残ってないんだ」
それでもいいなら、と確認すると、なつきは花がほころぶように華やかに笑って、頷いた。
「 うん、見たい。見せてくれる? 」
その表情があまりに可愛くて、笑ってしまう。
「君なら、いいよ……小夜原さん」
と。貴水は最後に苦笑して、一応の釘をさした。
「まあ、そんな喜ぶようなモノでもないけど」
〜 シシエンヌ 〜
貴水の忠告はあてにならない。
「かわいい……」
と、思わず口にして、食い入るように見つめてしまう。
古ぼけた写真の数々は確かに、少なかった。所々焼け焦げていたり、ピアノコンクールでの記念写真のようなモノ、写真館で撮ったような肖像写真がほとんどでプライベートなアングルは見当たらない。
なつきが貴水の幼い頃のプライベートを知りたいと思っていたのなら、確かに貴水の言葉は的を射ているだろう。
もちろん、プライベートも知りたい……が、コレだって十分に新鮮だった。
傷のない、ごく普通の貴水の素顔は端整と言って間違いない。
まだ、幼い表情ながら凛と澄んだ大きな瞳と優しい微笑。父と母に挟まれて撮られた家族写真は、本当に幸せそうだった。
それが、どうして壊れてしまったのか――。
くすくすと笑って、なつきは貴水に訊いた。
「この時から、総なめだったのね。あなたのピアノ」
その一枚は、有名な国際ピアノ・コンクールのジュニア・低学年部門で、トロフィーは小さいが第一位とデカデカとした手製の垂れ幕が横に掲げられていた。
「ああ、それが 最後 だった」
キレイに笑って答える貴水を、なつきは見つめて呆然とする。
一気に感情が削げ落ちる感覚。
「その日、火事に遭ったから……」
当時、天才プロピアニストを襲った悲劇として、週刊誌を賑わせたゴシップ記事は関係者の中では有名な話だった。
閑静な住宅街が寝静まった頃、葉山治貴邸に上がった火の手は一気に燃え広がり、通報を受けて駆けつけた消防車が放水を始めた頃にはほぼ焼け崩れていた。
そこから、助け出されたのは軽症の母と、重度の火傷を負った小学生の一人息子。
家主であり、夫であり、父であるピアニストは、焼け跡から白骨化した遺体となって発見された。
貴水の傷を見るたびに襲う水江の発作は、この時のショックの大きさを表している。
思い出してしまうのだ。
貴水が 死んだ 葉山治貴に似ていれば、似ているほど。
胸を襲う衝撃は強い。
心の臓をつかまれる。
「僕のせいだ。だから、母さんは僕を見るたび苦しむんだろうなあ」
と、どこか他人事のように呟いてなつきを見た。
何も訊かずに黙っていた彼女は、そばにやってきて横に座ると彼の胸に頭をコテンと預ける。
窓から差しこむ光はまだ高く、夏の眩〔くら〕む日差しで部屋の中まで照らしていた。
外に出れば、すぐにでも汗ばむ陽気だ。
「抱いていいかな?」
「え?」
ビックリしたなつきは、身を引いて貴水の顔を仰いだ。
白い包帯に隠された醜悪な傷の中、闇の眼差しだけが彼女の反応に目を見開いていて、自分で言った言葉の意味に当惑していた。
「あ、違うんだ。そういう意味じゃなくて、抱きしめたいなあと思って……あの時みたいに」
あの時……。
なつきにはすぐに、分かった。
初めて関係を持って、しばらく離れていて、またそばにいてもいいか、と確認した――あの時。
強い抱擁を覚えている。
「なんだ、それだけでいいの?」
あからさまにガッカリしたなつきの声に、貴水の真剣な眼差しは細められ、見たこともない表情にゾクリとする。
残酷な微笑。
いつもの優しい顔ではない、冷酷で自分本位な顔。
胸を熱くする情熱の眼差し。
強引な手に引き寄せられて、息ができないほどの激しさで抱きしめられた。
身体が軋む。
苦しい。
うまく息を吐くことができない……重なり合う胸の間で二つの鼓動を共有する。
貴水の粗い息遣い、その腕がなつきの身体の曲線を撫でて、彼女の形を構成する。
長い髪を梳く、しなやかで細いその指を感じて、なつきの唇からも息が洩れる。
貴水の肩に頬を寄せて、なつきは ここ がわたしの場所だと思った。
そして、さらに強い欲を生んだ。
( どうしよう…… )
次第に落ち着いてくる貴水の抱擁に、なつきの腕は強くすがった。
「もっと、強く抱いて」
ビクリ、と身を引く貴水に、ムッと口をすぼめて睨む。
「千住くん。どうして、ここで逃げるのよ」
「逃げてなんかないけど……」
言いよどむ彼は、いつもの彼に戻っていた。
寂しいような、ホッと安堵するような気持ちになって、目をそらさないまま彼の肩に頬をすり寄せる。
「けど? なによ?」
「君は、壊れない?」
「え?」
貴水の言葉の意味がよく理解できなくて、でもその優しくなった抱擁が心地よくてなつきはぼんやりと問い直した。
なつきを斜めにとらえた貴水の目は真剣で、しかし迷うように言った。
「 僕は、君を壊しそうで怖いんだ 」
と。
それは、まるで忠告のように、静かに耳に響いた。
fin.
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