Moonlight Piano #11-1


〜風花音楽大学一回期・夏期休暇「約束の日」〜
 ♯10 <・・・ #11 ・・・> ♯11‐2



 山手の郊外にある、高台の療養所は広くはなかったが、緑が多くて静かな場所だった。
 「魚路利〔うおじり〕療養所」と名前の刻まれた門をくぐって、千住貴水は受付で記帳したあと、待っていた小夜原なつきに「こっちだよ」と誘導した。
 湿気の少ない、爽やかな風が頬を撫でてなつきの長い黒髪をそよがせる。
 夏の日差しも、ここでは幾分過ごしやすくなっている。
 緑が多いせいだろうか?
 それとも、都市圏よりも高い場所にあるからか?
 たぶん、そのどちらもが理由だろう――。
 よく晴れた天気のいい午後ともなると、療養所とは言え中庭に出て過ごす入院患者も多い。
 彼女・葉山水江もその一人らしく、中庭へと連れてこられたなつきの目の先に映ったのは、上品な印象の中年の女性だった。



〜 ノクターン1 〜


「 母だよ 」
 と、離れた場所から貴水は言って、近づこうとはしなかった。
 彼ほどの特異な姿をしていれば、ここで立っているだけで見つかるか、見つからないかのギリギリの線だった。
 長く伸ばされた黒の前髪が、奥にある闇の眼差しを隠している。
( どういう顔してるの? 千住くん )
 見上げて、なつきはその表情を読もうとしたが、いつだって包帯で顔のほとんどを隠した彼の表情が見えることはなくて、本当のところ想像するしか手はなかった。
 もどかしい気持ちと、彼に無理を強いた自分のワガママに申し訳ないという気持ちが入り混じって、なつきは彼から彼の母へと視線を滑らせた。
 遠目で見ても、ほっそりとした色白の女性は優しそうな顔をしている。
 おだやかな表情。
 時折、顔見知りらしい同じ入院患者たちと笑っていると、「病気」だという事実さえ忘れてしまいそうな健康的な表情になる。
 なつきは、彼女の病気について何一つ聞いていない。
 千住久一からは、「貴水に直接、聞いた方がいい」と言われたからだ。

 けれど。

( 訊けないよ…… )
 ここまで、連れてきてもらってなつきは実感していた。
 貴水にとって、母という存在は大きな精神的負担となっている。それは、おそらく彼のピアノに対するあの言葉に通ずるものがある。
 ピアノから離れることはできない。
 しかし、自分が弾くピアノは「絶望」なのだと。
 本気で弾くことを戒〔いまし〕めながら、彼は自らを偽〔いつわ〕ってピアノを弾くのだ。
 それが、どんな想いなのか……なつきには解からない。
 ただ、そんな彼が腹立たしくて、無性に悲しくなる。

 嫉妬を覚えるほどの圧倒的な才能を持ちえながら、彼は――それを自由にすることを禁じている。

 遠く、母親を見守っていた彼はふと、言った。
「帰ろうか」
 と。
「うん」
 なつきはそう、答えるしかできなかった。
 貴水が泣いている、ように見えて、胸が痛くなった。
 泣いてはいなかったけれど、存外に無口になった彼へ心から感謝した。
「ありがとう、千住くん」
「え? 何が?」
「連れてきてくれて、……嬉しかった」
 言うと、貴水は「いいよ」と優しく笑って首を振った。



「きゃっ!」
 と、待合ロビーの角でふたたび貴水を待っていたなつきは、出逢い頭に誰かとぶつかった。
 その人を見て、瞠目する。
(千住くんの……お母さま……)
 派手に尻餅をついた葉山水江へ慌てて手を伸ばして、チラリと背後の彼を確認する。
 どうやら、気づいていないらしい。
「ごめんなさい、大丈夫ですか?」
 手を差し伸べると、水江はキレイに笑って「いえ」となつきの手を握った。
 ひんやりとした手の温度に、ドキリとする。
( 似てる―― )
 姿形ではなく、雰囲気や手の感触が 彼 に似ていた。
 そして、水江もまた「あら?」となつきの手を見て仰ぐ。
「あなた、ピアノを弾かれる?」
「え? はい。まあ……分かりますか?」
「ええ、そりゃあね」
 にっこりと懐かしいものでも見るようになつきを見て、
「わたしにもピアノを弾く、息子がいますから」
 と、それは嬉しそうに告げるから、なつきは不思議に思った。
(確か、千住くんはこの人が「会いたがらない」って言ってなかった?)
 目の前のこの様子では、とてもそうは思えなかった。
 「とっても上手なのよ」と自慢する水江に、なつきは戸惑いながらも嬉しくなった。

 貴水が、決して母親に疎〔うと〕まれているのではないと、信じられたから――。

「 小夜原さん? 」
 と、背後で呼ばれてなつきはビクリとする。
「千住くん……痛ッ!」
 ギュッ、と手に痛みを感じて、なつきは水江をふり返った。
 震える水江はまっすぐに貴水を見つめて、過度なほどに息を乱した。
「た、かみ? ど……して……」
 それから、なつきに目を移して唇を動かそうとしてできなかった。
 そのまま、膝から崩れる。

「母さん!」

 意識を失った母親を支えて、貴水は叫んだ。
 なつきは握られたままの手をしっかりと握りかえして、蒼白の水江の顔が目に焼きつくのを感じた。


to be...


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