Moonlight Piano #10


〜風花音楽大学一回期・夏期休暇「暑い日の午後」〜
 ♯9.5 <・・・ #10 ・・・> ♯11



 「なに、してるの?」

 その日、街の中でもセミの声がせわしなく鳴り響いていた。
 まとわりつく湿気と、むっと蒸せる熱気に汗が勝手に肌を流れる。
 クーラーの効いたビルの中に入ると一息ついて、千住貴水は目的地へと迷うことなく進んだ。そして、――彼女に会った。
 叔父の会社に来たのはたまたまで、だからこそ彼女と鉢合わせたしたのには驚いた。



〜 ロンドカプリチオーソ 〜


 小夜原なつきは「千住プロダクション」社長室のソファに座って、扉を開けたところで立ち尽くしている彼を見上げめずらしく言葉を選ぶような仕草をする。
 貴水もそうだったように、なつきにとってもこれは――偶然で、まったく予想外のことだった。

 千住久一だけが、ことのなりゆきに「さもあらん」という表情でニヤニヤと笑う。

「まあ、これもおまえたちの運命だろう。座っていけ、貴水」
 促して、ポカンとしていた甥はさしたる断る理由もないので、そばのソファに腰をかけた。
 ふと、テーブルに置かれた紙を見て目を瞠〔みは〕る。
 契約書。
 と、書かれたそれは氏名、年齢、学歴、経験などなどの欄が並んだ形式的な書類で、さらにそれに書かれた名前に愕然とする。
「小夜原さん、だって君は――」
「早合点するな。何も、すぐにこき使うワケじゃない、学生の身分ではイロイロ問題もあるし……私からすれば、いわゆる投資みたいなものだよ。有力な人材は、確保するに限る」
「ってコトらしいの。口説かれちゃって……千住くん?」
 困ったように笑って、なつきは無言になった貴水に眉を寄せた。
「叔・父・さん」
 包帯の下、おそらくはかなりの渋面をつくった彼は低く久一を呼ぶ。
「信じられない、本当に口説くなんて……小夜原さんは僕の 友人 だよ」
「まだそんなことを言ってるのか、おまえ――」
 呆れたような叔父の顔を不審に思いながら、貴水は次の言葉に固まった。
「女性に恥をかかせてはいけないよ、したんだろう? 最後まで」
「……ごめん、言っちゃった」
 と、小さく肩をすくめて舌を出したなつきに、貴水は何とも言えない表情をして息を吐いた。
「それは、否定はしないけど……とにかく、何をネタにしたのか知らないけど、小夜原さんを巻きこむなんて感心しないよ」
「巻きこむなんて、人聞きが悪い。おまえの父親もこの世界の住人だったじゃないか」
だから 、だよ」
 ひどく感情の欠落した声で呟いた貴水に、久一はため息をつく。
「おまえが毛嫌いするのは解かる。が、言うほど悪い世界じゃないんだぞ」
 にっこりと笑う叔父に、貴水は沈黙した。
 叔父を信頼しているとは言え、これだけは容認できなかった。
「もちろん、甘い世界でもないけどな。ってコトで、コレはおまえの分だ」
 差し出された契約書に「いや、いらないから」と無下につき返して、貴水はなつきの手をとった。

 扉のところで立ち止まり、ホイと投げる。
「叔父さん、コレ。わすれ物」
「え?」
「ケータイ、仕事道具だろ」
 電源を入れた途端、鳴り響く流行の着信音に久一が「どわー」と派手な悲鳴をあげて仰け反った。
( いい気味 )
 と、思いながら「さぁ、行こう」となつきに呼びかけると、彼女は久一の窮地を気にしていて「でも」と言いよどんだ。
 貴水はそんな彼女をさらに強く促して、社長室を出るとビルの廊下で歩きながら言った。
「わざとだから」
「え?」
 まだ、理解しきれないと眉根を寄せてなつきは貴水を仰いだ。
 ため息がこぼれる。

「つまり、僕らを鉢合わせさせたかったんだよ。叔父さんは」



 テーブルに投げ出された契約書を拾って、久一は「ふむ」と息をついた。

 とりあえず、鳴り止まない携帯の着信音は電源をふたたび切って回避し、あとで一件一件処理することにする。
 とんだ大仕事ではあるが……貴水をその気にさせるには必要なことだったから、仕方がない。
「――野放しにできるか? あの腕を。おまえにこそ「契約書〔コレ〕」は必要だろう」
 ボソリ、と呟いてニヤリと笑う。
 甥のピアニストとしての、類稀な才能はプロダクション社長として野放しにできるものではない。
 繊細で、圧倒的な音色は幼年時代、あらゆるコンクールを総なめにしていたもの。
 とは言え、あの出来事以来契約することは、諦めていた。貴水の人前に晒〔さら〕さない醜悪な肌と同様に、その音色も封じられ、けっして聴くことができなくなったからだ。
 そう、それは嫌悪していると言えば、一番近いだろう。

 ……しかし。

 最近になって、そんな甥に変化があった。
 彼女・小夜原なつきの存在があれば、あるいはふたたび動きはじめるかもしれない、と。
( ――にしても、だ。貴水〔あいつ〕じゃないが……余計なお世話だったかもしれないな )
 久一が手をこまねくまでもなく、なつきの方が積極的だった。
 甥と彼女の二人の関係が知らぬ間に進展していて、少なからず驚いたが……あの頑なな貴水を陥落させるとは、大した手腕だ。
 と、ゆっくりと立ち上がり窓を見下ろすと、ちょうど目立つ容姿の二人が大通りを歩いていくところだった。

( 彼女であれば、あるいは――あいつの氷をとかすことができるかもしれない )

「美少女と包帯男、か。犯罪的だなあ」
 くすり、と自然、微笑んで久一は二人の影から視線を外すと、天を仰いで呟いた。


*** ***


 見上げると、隣を歩く貴水は怯えたように闇の眼差しを長く伸ばした前髪の奥から揺らしていた。

「会わせて欲しいの」

 と言う、なつきの単刀直入な申し出に躊躇って、貴水は「でも」と低く答えた。
「僕も、年に何度かしか会わないから……」
「どうして?」
 なつきは引かずに、逆に強く追求する。
「母は、僕と会いたがらないから。だから――僕も会わない。たぶん、その方がいいんだ」
 笑う、彼の顔を眺めてなつきは、それでも「会いたい」と言った。
 貴水から話してもらえるまで時を待つには、あまりに漠然としていて知らないことが多すぎる。それなら、自分から働きかけるまでのこと――。
「直接、話せなくてもいいのよ。遠くから見るだけでも……ただ、知りたいだけなんだから」
 ねえ、ダメ? と懇願してくるなつきに、貴水は息をつく。
「……小夜原さんのことだから、叔父さんからもう手に入れてるんじゃないの? 病院の住所くらい」
「うん。でも、わたしは千住くんに連れて行って欲しいのよ。そんなにイヤ?」
「イヤじゃないけど、正直、あまり会いたくないんだ。母とは……母と僕は、親子であって親子ではないから」
 自嘲するように呟いて、貴水は「まあ、いいよ」とゆっくりとなつきに向き直った。

「 連れて行くだけで、いいならね 」


fin.


 ♯9.5 <・・・ #10 ・・・> ♯11

BACK