その日、万神の国に生まれた民は年に一度のイベントに浮かれていた。
街の中では、賑やかなそのシーズンならではのテーマソングが流れ、若いカップルや子ども、年老いた夫婦まで幸せな空気に包まれる。
清し、この夜。
なんて、言葉がこの時まで憎らしいと思ったことはなかった。
そう、……長い黒衣が翻〔ひるがえ〕る。
そのしなやかで無駄のない動き。月明かりに見えた口の端に浮かんだ、勝ち誇ったような笑み。
深い陰影に、定かではない姿が溶けて消える。
瞬間まで――。
>>>春の目覚め、4-0。「プロローグ」
所天町のマンションの一室である飛木家のリビングで、黒ぶち眼鏡の理知的な姉・飛木伶〔とびき れい〕が、小柄ながらしなやかな体躯をした弟・飛木遥〔とびき はるか〕に静かに言った。
「 分かってるわね、遥? 」
「……わかってるよ」
姉の冷静な圧力に、眉根を寄せ弟は分かってはいるが……実行に移すのは容易ではないと心中で毒づいた。
というか。
普通、ソレは姉が弟に唆〔そそのか〕すような 事柄 ではなかった。
(奈菜を、「押し倒せ」ってどうなんだよ?)
もちろん、目的は行為ではなかったが……むしろ、そこが一番の 問題 かとも遥は思う。
確かに、付き合い始めたのだから「そういう」シチュエーションも「自然」だろう。
だが、しかし。
ちょっと待て、と遥はあからさまに抵抗を感じた。
怪しまれることは 確か にないかもしれないが、彼女に嫌われる可能性は 大いに あるのではないか? と。
ただでさえ、自分の悪いからかいグセのせいで井元奈菜〔いもと なな〕には誤解されている節があった。
ぶす、とふてくされた遥へくすくすと笑う声が降って、不機嫌に拍車をかけた。
「 センパイ 」
「ああ、悪い。遥くんの表情があまりに分かりやすかったものだから」
うっとりするような、美声の持ち主は飛木姉弟の隣人である西野雅弘〔にしの まさひろ〕。
背後から伶を羽交い絞めにすると、彼女の胸に躊躇うことなく触れる。
よくあるスキンシップ、とでも言おうか。
肩に顎を乗せられて、伶はあからさまに迷惑そうな声で「やめてよ」と口にする。
が、その表情はやはり無表情だった。
彼女は雅弘の手をほどくと、三つ編みを解いた黒髪を耳にかけ黒ブチの眼鏡は光を反射させた。
「 もう、あまり時間はないんだから 」
まるで、伏魔殿の囁きに遥は唇を引き結ぶと、「分かってるよ」と低く答えた。
*** ***
新学期がはじまった、ある日の昼休みのことだった。
校庭には、まだ桜が満開で風にひらひらと舞い散る情景が広がっていた。
運動部部室の並ぶ一角に、女生徒が所在無さげに立っていた。そこが、「超常現象研究会」の部室の前だったから通りかかった井元奈菜は立ち止まって、近づいてみる。
やっぱり、そこは奈菜の所属する「超常研」の部室の前だった。
「――あの」
「きゃっ!」
後ろから声をかけてきた奈菜に、彼女は悲鳴を上げた。
長い黒髪は手入れがゆきとどいているらしく艶々としていて、猫っ毛の奈菜としては羨ましかった。
しかも、である。
(す、すごい美人……なんですけどっ!)
同性のハズなのに、胸がドキドキする。
綺麗と言えば、「超常研」の部長である飛木伶もそうなのだが……彼女の場合、惜しいことに表情が欠けているためどこか人形めいた淡白な印象の方が強い。
が、この彼女はと言うと。
華やかだった。
長い黒髪に、大きな瞳は丸々と見開かれて奈菜を凝視していた。その、睫の長いことと言ったら西洋人形のそれに近い。白い陶器のような肌にうっすらと紅がさして、開いた唇はさくらんぼのようにぷるんと光沢をもっている。
気圧されるような、存在感。
「あ。ご、こめんなさい。驚かせちゃって!」
思わず、どもって奈菜は自らを叱咤した。
(な、なんで慌ててるさ! わたし!!)
「うちの部に、何か用なのかと思って」
「え? じゃあ、「超常研」の人?」
美少女はそう目を瞬かせて、奈菜をまたシッカリと凝視した。
(……なんか、すっごく緊張するんですけど)
少女の胸に結ばれているリボンは、奈菜と同じ赤色……ということは、同級を意味していた。
(うちの学年に、こんな美人な子がいたんだなあ……知らなかった)
暢気にそんなことを考えはじめた頃、ふーんと美少女は相槌をうって奈菜ににこりと微笑んだ。
「じゃあ、あなたが「 トコロテンの怪盗 」を研究してるっていう 井元奈菜 さん?」
ビクリ、と名指しをされて奈菜は固まった。
「そ、そうですけど」
おっかなびっくり返事を返すと、美人の彼女は「ああ、ごめんなさいね」とようやく 自分 が名前を名乗っていないことに気づいたようだった。
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