学校を飛び出して、わたしはどこをどうやって帰ったのか……家に着いた時には日が傾いていて空が紫色に染まっていた。
「ただいま……?」
家の扉を開けると、わたしの思考回路は停止した。
パタパタと家の奥からスリッパの走る音が聞こえて、エプロン姿のお母さんが「遅かったじゃないの」と目を心持ち吊り上げて出迎えた。
「彼、けっこう前からあなたが帰るのを待っててくれたのよ。謝っておきなさいね」
いや、お母さん。その前に、なんでコイツがここにいるのか教えてください。
怒ったようにこっちを睨んでくる彼について、わたしは深く考えることができなかった。
考えれば、きっと涙が出てしまう。
「 忘れ物 」
そう言ってヤツが出した代物に、わたしは思わず叫んでしまった。
「わぁっ! な、なんでアンタが……」
それは、紛れもなく わたしの 制服の赤いリボンだった。
見れば、胸には何もなくて……聞かなくてもわかった。あの時だ。
もつれあった自分の姿を思い出して顔が赤くなる。
まるで、夢の出来事だったと思うのに、やっぱりアレは現実で――。
「奈菜」
何も気づいてないらしいお母さんの非難めいた声に、わたしは遥くんをたぶん恨みがましく睨んだと思う。
だって、こんなものを平気で忘れてくる娘ってどうなのさ。しかも、届けたのが男の子で、親の前での手渡しってイロイロ問題だと思うの。
もうちょっと、デレカシーってモノを養ってほしい。
「……お母さん、送ってくる」
なんとかそれだけを口にして、わたしは遥くんを家の外に連れ出した。
背中から、「ちゃんと、お礼言うのよー」と無責任な言葉がかかって、わたしはなんか思わず深いため息をついてしまった。
「キス泥棒に礼を言ってどうするのよ……」
そうだ、よくよく考えれば相手は泥棒なのだ。泥棒……キスどころか、もっと大事なものだって盗られてる。
だからか、やけに あの 怪盗とイメージが重なるんだけど。
「……何しに来たのよ」
夕闇の中、路地を歩きながら、わたしは白い息を吐いて隣の遥くんにボソリと訊いた。
すると、彼はさらりと言う。
「忘れ物届けに、って言わなかった?」
「聞いたけど! でも、べつにそれなら学校始まってからでもよかったのに……」
「こういうのは早いほうがいいと思って。忘れ物って、リボンのことばかりじゃないんだって分かってるか? 奈菜」
「……何よ、ほかにもなんかあった?」
わたしは不安になって、考える。カバンはちゃんと手に持ってたし、今日はほかに荷物なんてなかったはずだ。
気が動転していたから自信はないけど……。
遥くんは、そんなわたしの顔を見て至極真面目に告げる。
「俺、好きなヤツとしかキスしないよ」
頬が熱くなった。
なんか、そーいうことを彼の口から聞くなんて思わなかった。
「い? いきなり何言うのよっ、バカっ」
「だから……鈍いんだよ、おまえ。察しろよな」
ちょっとイライラッとした口調で、遥くんはわたしを見る。
に、鈍い。
……そりゃ、美夜ちゃんにも言われたけど! でも。なんで、アンタにまで言われなきゃならないの?!
「好きなヤツとしかしないって告白されても、わたしに関係ないじゃないっ」
「あるだろ」
「どこに!?」
「おまえさあ、忘れたの? 俺、おまえにキスしたよな」
本気で呆れたのか、遥くんの声はため息まじりになっていた。
そんなの、忘れられるワケがないじゃない!
覚えているに決まってる。
キスしたの、今日なんだよっ。
と、思ってその「事実」にようやくわたしはひとつの答えに行き当たった。
(え。でも、ちょっと待って!)
ボンッと頭が沸騰した。
(そんなの、信じられないよ)
「嘘。だって遥くんには……」
「だーかーらー、どうしてそっちの話を信じるのか理解できない。「彼女」なんておまえしかいないのに」
*** ***
「 ウッソだあ! 」
と、奈菜は混乱したように目を泳がせてから、力いっぱい否定した。
なんだ、その自信は。
動揺していることが目に見えてわかるから、俺は「なんで?」と静かに訊き返す。
「だって、わたしなんて可愛くないしっ。…… 胸 だってないし! からかってもダメだからね」
毛羽立った猫のように警戒を強めた奈菜に、俺は男の部分を刺激された気がした。
そういうコトを言いますか。
そんでもって、その揺れる眼差しがたまらなく俺を意地悪にする。
「何? 「胸ペチャ」って言ったの気にしてるのか? 悪かったよ。大丈夫、小さくても大きくできるんだから」
「はぁっ?!」
いきなり何言うのよ、という不審な表情で俺を見て、スススと離れる。
それが狩猟本能を刺激するなんて、きっと彼女は思ってないだろうけど……俺には効果テキメンで自分の行動に呆れる。
( 本能のままかよ )
逃げる奈菜の手をとって、閉じこめる。
ふにゃりとした、やわらかな感触に声がかすれた。
「俺が大きくしてやるよ」
囁いて、ふきだしそうになるのを耐える。
触れるだけで、伝わってくる彼女の緊張。
冷えきった体が、愛しかった。
「 返事は? 」
「 スケベ! 」
奈菜が真っ赤になってポカポカと叩いてきたから、俺は我慢しきれず……おかしくてケラケラと笑った。
「な。何よっ、やっぱりわたしのことからかってるんじゃない! バカ!!」
ぷい、と赤鬼の如く怒った彼女は俺を突き放して走り去ってしまった。
(しまった……からかいすぎたか)
と、気づいた時には遅く、彼女の背中を見つめて「あーあ」と苦笑い。
困ったことに、俺は奈菜をからかうクセがついてしまったらしい。
つーか、奈菜の反応が可愛すぎるのが悪い。
良すぎて、つい歯止めがきかなくなるんだ。
( 明日、出直した方がよさそうだな )
日の落ちた冬の路地で、俺は宵の空を仰ぐと刺すような冷たい外気でしばらく頭を冷やした。
今頃、奈菜は何を思っているだろう。
俺のことだったらいい……と、願って闇に溶ける白い息を見つめた。
「 重症だよなあ 」
たとえそれが、「バカ、あほ、スケベ」っていう悪態でもいい、なんてさ。
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