ピピピッピピピッピピピッ
「んーっ」 はふっ、と欠伸〔あくび〕をひとつすると、わたしはズボッと布団から手を伸ばしてベッドの際に置いた目覚まし時計を力任せに叩いた。 そして、ふたたびまどろむ。だって、まだ、目が開かないのだ。 あと、もう少しくらい寝かせてよ。 なんか、イロイロ考えることがあって、眠れなかったし――そう、イロイロねえ? この夢と現実の狭間の浮遊感はたまらなく気持ちがいいのだが……恐ろしいことに、この世界は少しばかり現実と時間の回り具合が違うらしく、気がつけば一刻ほど過ぎていることが多い。 で、今朝も例外ではないらしく――。 「奈菜ー? 今日から学校なんだから、遅刻するわよ」 ハッ! 条件反射で飛び起きる。 ベッドの上で正座して、無言のまま止まっている目覚まし時計を掴んだ。 「 7時半?! 」 パジャマを脱ぎながら、オーソドックスな紺色のブレザーを手にすると手早く着る。そして、そのまま鏡台の前に立った。 前の町から持ってきた家財道具のひとつ、三面鏡は扉のような形をしているクセに閉まらないという妙な障壁をもっている。が、今は開ける手間が省けてありがたかった。 「うー、どうしょう……転校初日に遅刻なんて〜」 鏡には情けない顔をした自分の立ち姿。滅入るからもっと笑ってよ、とちょっと笑ってみる。胸の赤いリボンを結んで……。 あ、結構可愛いぞ。 「……なんてな」 鏡の中で、私が頬を染めた。 いつもと同じように、そんなに長くはない黒髪を頭の上で結い上げると、耳のあたりにすこしだけ短い髪が落ちてくる。けど、気にしている場合ではない。 鏡の前で、馬鹿なことをしたせいで、本当にヤバいのだ。自業自得だけど……。 夕べ、準備しておいた皮製の学生鞄を引っ掴む。 とんとんとん、と階段を上がってくる足音に、部屋を飛び出し、 「いってきまーすっ!」 と、階段を駆け下りた。 「ちょっと、奈菜! 朝ごはんはどうするの?!」 階段の上に立つ今時めずらしい割烹着姿をした母さんを振り仰いで、早口にまくしたてた。 「時間ないんだってばー、今日は初日だからって8時15分に職員室に行かないと!」 「――もうっ」 そんな母さんの呆れたような声を聞いている暇はなかった。なんか、「それなら昨日から準備しときなさい」とか小言めいたことを言われた気がしないでもないけれど……。 「仕方ないじゃない。だって――」 スカートのポケットに手を突っ込み、その感触を確かめる。 (だって、――) 「………」 ふと、視線を感じてキョロキョロと辺りをうかがう。 「あれ?」 誰もいない。 と、男子高校生が自転車で通り過ぎていったので、慌てて走り出す。 走りながら、昨夜のことを思い出した。 わたしもどうしてコレを黙って持っているのか、……よく、分からないのだけど。 ただ、 たぶん、 コレが彼との唯一の接点のように思うから。 (――接点?) その考えに、自分で思わず笑ってしまう。はー、走りながらは結構キツイなあ。 (ファースト・キス……だったよねえ) なのに、この普通な朝はなんだろう? もっと、何かあってもいいんじゃない? 「怒り」とか「悲しみ」とかさ……いや、全然ないってワケでもないんけどね。 ただ、問題なのは、それよりも こっち の方が気になって眠れなかったってコトかもしれない。 制服のスカート。 そのポケットに手を入れると触れるのは、元は円形の石版と思われるモノ。 しかも、その割れ方は人工的なものだ……たぶん。一見は、本当にただの石なのだけど、磨き上げられたそのツヤと何かの図柄らしい彫りを見れば、タダの石でないことは 確か だ。 だからって、それが 何か とかまでは見当がつかなかったりするのだけど。 うじゃうじゃと入り乱れる考えに、「ええい!」と頭を振る。 たぶん、きっと、コレは「 謎 」だ。 最悪の出会いだったけど――でも、すごく胸がワクワクする。 (あれっ?)と、首をかしげてみる。 「なんで?」 はぁはぁ、と職員室の前に立ち、わたしはしばらく呆けた。 まだ、寝ぼけているのかも……と、ちょっと怖いですよ。自分が。 だって、そんな――さあ? いくら、 あの キスがイヤじゃなかったからって――相手の顔も名前も分からない、その上に「 怪盗 」とかいうふざけた職業の殿方に惚れるなんてないでしょ? しっかりしてよ、わたし。
*** ***
「井元奈菜〔いもと なな〕です」
そう言って、ぺこりと頭を下げたのは、髪を結い上げた……いわゆる「馬のシッポ〔ポニーテール〕」にしたあどけない少女だった。 甘品〔あましな〕高校1年2組の教室、真ん中の一番後ろの席にいた俺は、即座に(やばいっ!)と身をすくめた。 彼女が、自分と同じ学校なのは知っていた。朝に後をつけて確認したし(気づかれそうになって泣く泣く追い越したけどさ)、職員室で先生と話しているのも見た。が、まさかそれがうちの担任の「ヤマケン」だったとは! 不覚だ。また、姉貴に「ツメが甘い」とか言われるじゃないかっ。 夕べ、さんざん姉貴に厭味を言われたというのに! いや! アレは厭味というか、単に事実を単刀直入に言われただけかもしれないが――。 「 馬鹿 ね」 家に戻った俺を、自室(と言っても、俺と姉貴しか住んでいない1LDKの唯一の個室)の机で生物の問題集とにらめっこしていた姉貴……飛木伶〔とびき れい〕が、黒ぶちのメガネを外して言った。 その静かな眼差しの冷たいことといったら、いや、……冷たいのはいつものことなんだけどさ。 「いやー、まったく! 順序ってモンを知らないねー、遥くんは」 「――う、うるさいなっ」 定例のことなので存在も忘れていたが、隣の住人で幼馴染、そして姉貴と同級の高校の先輩。学年主席の彼女に「理解不能」と言わしめる西野雅弘〔にしの まさひろ〕を一瞥〔いちべつ〕して、俺は腹立ち紛れに どかっ とその横にある定位置の座布団に座った。 「センパイは、黙っててよ」 びっくりしたように雅弘は俺を見て、嘆かわしいと姉貴を見上げた。 「伶、聞いた? センパイだってさ……いつも、「おにーちゃん」って呼ぶように言って聞かせてるのになー」 「まあ、面白くない西野の冗談は置いといて」 と、抑揚のない言葉で雅弘を撃沈させると、姉貴は椅子をくるりと回転させる。 学校では三つ編みにしている長い髪が、大きく揺れた。 一房がその胸にしっとりと落ちると、いつもと変わらない姉貴の感情のない瞳に射抜かれる。 「とにかく、ちゃんとしなさい。おねーちゃんからの命令よ、遥」 ああー、なんて似合わないフレーズ。 思い出して、なお脱力するこの威力は凄まじいモノがある。「おねーちゃん」……「おねーちゃん」って、なあ。 それは、もっと可愛い姉に向かっていう言葉ではなかろうか? いや、姉貴もアレでめっちゃ運動音痴だし、時々抜けてるから可愛くないこともないのだけど。 あの「ムヒョージョー」で言われてもなー。 「はじめまして。隣、よろしくです」 「 ! 」 自分の思惑に没頭していたせいで、今の現状を理解していなかった。ガタガタ、と椅子から滑り落ちそうになる。 「は、ああ。勝手にすれば?」 「………」 言ってから、俺は後悔した。初っ端〔しょっぱな〕から、嫌われてどうするよ? アレ、取り返さないといけないってのに……。 井元奈菜は、それから二度と俺の方を見なかった。 (助かる、って言ったら助かるんだけど。あんまり、顔見られたくないし――あの時に、見られてるからなー。逆光だったから、大丈夫だとは思うけど) はぁぁ、と深い息を吐いて、俺は夕べから繰り返している最大級の謎を頬杖をついて考えた。 なんで、俺……あんなことしちゃったかな〜。
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