職員室で三崎純也に問われた学年主任は、「あー」と懐かしむように目を細め頷いた。
「野田那智さん、ね。よく、覚えているよ……病気で退学しちゃったのは可哀想だったけれど」
そう、机の引き出しから資料を取り出して開く。
「そうそう、手術は成功したって連絡があって喜んでいたんだ。ただ、どうもリハビリには時間がかかりそうだという話でね……彼女から退学届を受け取ったんだよ。そのほうが焦らなくていいから、と」
「そうですか」
純也はほっと息をついて、礼を伝え職員室をあとにした。
と。
職員室の扉が開き、「三崎」と呼ぶ彼の声が追いかけてきた。
「はい」
聞くべきことは聞いた、と思っていた彼は訝しんだ。
やってきた学年主任は参った参ったと頭を掻いて、純也に何かを手渡そうとする。
「野田の連絡先だ。そういえば、彼女はやけにおまえのことを気にしていたし……連絡をしてやったら、喜ぶんじゃないかと思ってな」
「……そう、ですか」
先生なりに、病気の彼女の不運を気遣っているのだろう。
受け取ると、先生にお辞儀をして身を翻す。
じっ、と手の中の電話番号を眺め、ピッと破る。
〜 04.いつのまにか 〜
( 必要ない )
唯子がいなければ、あるいは揺れたかもしれない 感慨 だった。
しかし、唯子がいなければ先生に 彼女 の所在を確かめる勇気もなかった。生きていてもいなくても、純也にとっては野田那智の存在は苦い思い出でしかない。
それなら、いっそ知らないほうが楽だった。
手の中の残骸をゴミ箱に捨てて、純也はふり返る。
「せんぱーい」と呼ばれたからだ。
移動時間らしい唯子はパタパタとやってきて「奇遇ですね」と嬉しそうに跳ねる。
「どこかに用事ですか?」
「いや、終わって戻るところ」
「そうなんですね、わたしは次は家庭科です。実習でアップルパイを作ります」
手には個々に材料を用意することになっているのか、何か大きな荷物を抱えている。
「うまく出来たら、先輩食べてくれますか?」
「いいよ」
と、微笑んで、ふわりと彼女の髪を撫でた。
「頑張って」
「はいっ」と嬉しそうに喜ぶ唯子を眺めて、純也はこの笑顔だけを守ろうと決めた。
ほかの誰かが傷ついても、気にならない。
「先輩?」
「好きだよ」
覗きこんで伝えると、間近のまあるい目は驚いたように見開かれ、弧を描く。
「わたしも、です」
頬を染めて答える。
唯子が好きだと答えてくれるなら、純也はほかに何もいらなかった。
*** ***
部活仲間の友人、金原柚月〔かねはら ゆづき〕に訊かれて純也は眉を寄せた。
「癒し系?」
なんだ、それは? と訝しむと、けらけらとおかしくてたまらないらしい友人はポンと純也の肩に手を置く。
相変わらずの伸びざらしの髪。
そこに隠れた愛嬌のある目が悪戯に輝いて言った。
「おまえと唯子ちゃんの二人だよ。うちの高校の「 癒し系 」カップルだって有名らしいぜ?」
唯子ちゃんはともかく、おまえはなあ? とひーひーと腹を抱えて笑いはじめた柚月に流石に純也もムッとなる。
「悪かったな」
肩についたヤツの手を払い、慌しい教室を出る。と、あとから彼もついてきた。
( ついてくるな )
と、あからさまに鬱陶しがられていると気づいても、柚月は痛くも痒くもないらしく鼻歌交じりに純也の隣に並んだ。
「まあまあ、そう怒るなって! 俺もたまには外で昼が食いたいなあ……とか思うワケで」
「で?」
回りくどい彼の言い様に、純也は素早く先を促す。
ニマニマと笑って、柚月は手のひらを合わせて可愛くないお願いのポーズを作る。
「ご一緒したいなあ、とか思うワケよ? 「癒し系」の 二人 と」
「 断る 」
取りつく島もない純也の返答に、あいた! と柚月は額を叩いた。
「似非天使め。さては、校内で不健全なことを考えてやがるな……」
「おまえと一緒にするな」
純也は頭が痛くなる。
「なにおぅ! じゃあ、何か? おまえ、唯子ちゃんのそばにいてムラムラーとか一回もないっていうのかっ」
「……そういうことを、校内の、廊下の、ど真ん中で、言うな」
「カーッ! 信じられねえー」
「……誰も ない とは言ってない」
低い純也の声に、ハタと見交わして柚月はニカリと笑う。
「健全じゃん」
「邪魔者は退散しましょ」と去り際はからかうように言って、ヒラヒラと手を振った。
いつの間にか、そこは二人の午後の定位置となりつつある。
純也の作業がひとまず落ち着いた頃から、第二美術室ではなく――校庭の大きな木の下にあるベンチが二人の場所だった。そこからはフェンス越しに空を見上げることができる。
風が吹いて、唯子の長い髪がなびいた。
純也の膝に頭を乗せて、彼女は、相変わらず無防備によく眠る。
「唯子……唯子、あんまり寝てたらキスするよ」
うっすらと瞼を開けた彼女は微笑んで、「キス、してくれたら起きます」と髪を撫でる純也をこそばゆそうに見つめた。
「――見て、キスしてるわ」
そんな二人を見守る帝都浦川高校の生徒たちは、一様にため息をついた。
イチャイチャしても、和むのは かの 二人のなせる業〔わざ〕と言おうか。特権であるのかもしれない。
そうして。
そこは、三崎純也が卒業するまでのわずかの時間の 出来事 にも関わらず、「天使の休息所」として彼ら在校生の隠れた 名所 として語り継がれるのだった。
もちろん、当の本人たちは 知らない 事実〔こと〕である。
>>>つづきます。
clap1‐3<・・・ clap1‐4 ・・・> clap1‐5
|