月之段.審判U


「そう、私が欲したのは貴方の命」

 血に足をぬらし、血染めの絹衣を美しくまとって、彼女は粗い息となった堕王を見下ろした。
 顔に散った赤い血も、彼女のおそろしいまでの美貌を侵すことはない。むしろ、それは……鬼姫の情炎に似合ってさえいる。
 肖治敬はただ苦痛に顔を歪め、絶望に目を見開いて愛蓮を仰ぐ。
「私はずっと望んでおりましたわ、貴方のその顔を拝むことを……」
 彼女は剣からしたたり落ちる赤い血を、あさく伏せた瞳で追う。
「ねえ、お義兄様? 今こそこの……愛蓮の、真の望み……叶えてくださいますわね」
 にっこりと笑いかける。
 それが。
 ……私の憎悪の炎に気づかなかった貴方の、罪の贖い方……。
 変わらぬ聖女の美貌はもちあげた白刃にその顔を映す。血がほとばしったその奥……美しい女が自らが手に墜ちた王を静かに見下ろしていた。

「……あ……」

 力のかぎり名を呼ぼうとして、肖治敬はできなかった。
 絶望の淵、彼が最期に見たのは黒い炎。
 恐ろしくも、美しい。女の冷たく熱い情念の炎だった。
 愛蓮……。
 その身を滅ぼし、それでもなお…愛しいと、恋い焦がれる女の名を胸に抱き、肖治敬はガクリとうなだれた。そのこうべがふたたび上げられることは、ない……もう二度と。
 それが…英雄と讃えられ、暴君と嘲弄された治敬帝の最期だった。

 ……ポタン……ポタン……。

 愛蓮のもつ剣の切っ先からは、主を亡くした赤い鮮血が、いつまでも続く鎮魂歌のように床を濡らし続けていた。


*** ***


 首根を裂いた短刀を引くと、七郎は立ち上がった。
 船内にいた数十人の兵は、もう片手で数えるほどしか残っていない。
「胸騒ぎがする……」
 彼は胸に手をあてる。
「七郎」
 呼ぶ声にふり返ると、そこには鮮やかな衣服を着こなした彼が、額縁にはまった絵画のようにこちらに碧い目を向けている。淡い光に彼の黒髪は、くすぶるように反射した。
 彼も何か直感的に感じているのだろう。七郎を呼ぶ声もどこか、いつもと違った。
 船内の空気が変に緊張している。
 何がおこっているのだろう。
 七郎はドクドクと高鳴る胸に、訊く。
「大丈夫。あいつらはそんなにヤワじゃないぜ、七郎」
「……知ってるさ。僕はただ、この悪趣味にギラギラした船内が、肌に馴染まなくって嫌なんだ」
 見透かされたように見下ろされ、七郎は眉根をよせた。ポン、と置かれた翠連の手をうるさそうにはらうと、船窓から外を眺めやる。
 計算外だな。
 空を仰ぐ大人びた少年の瞳が裏腹に優しく崩れた。
 森以外のヤツにこんなに心を許すなんて……。
 空は静かに七郎を見下ろしていた。


*** ***


 義弟の妻、青愛蓮を手に入れたいがために、治敬帝は自らがめとった貴姫のひとりを殺し、画策した。彼女はひとつの罪を犯し、それに贖って自殺した……のだと。
 そのため、彼の義弟である流親帝は自室の寝室で自害……青愛蓮は青貴姫となった。
 彼女の罪とは……姦通罪……だった。

「やめろッ!」
 ガッ、と激しい刃の交じりあう音。
 重くのしかかる男……淵静祈の剣を力づくではじき返すと、瑞は彼の言葉をさえぎった。
「バカだ……そんな」
「おびえているのですか?」
 彼女の腕のふるえを読みとったように、うすく浮かんだ笑みが訊く。
「かわいい方。貴女なら、きっと彼女の……愛蓮様の想いがお分かりになるのでしょうね?」

「ちがう!」

 渾身の思いで上げたそれは、あきらかな肯定だった……そう、自分には痛いほど彼女の気持ちが分かるのだ。
「 ! 」
 カン。

「あ……」

 瑞の剣は彼の剣にはじき上げられると、カランと床に落ち、ちいさく踊る。
「……ぐッ」
 パッと赤い飛沫が床をぬらした。
 な……ッ。
 その血飛沫に、瑞は目を見開く。
「恒牙!」
 その長身の身体はグラッと重心を傾かせると、荒く息をついて壁に背をつけた。
「……ず、い。おまえ、バカだぜ。敵の前でもの思いにふけるなんざ……酔狂な演出家くらいだ……」
 片目をとじ、軽口をたたく合間にも、彼の左肩からは血がながれ、押さえる指の間や腕につたい、ポタポタと床に落ちていく。黒い闘衣でも見る間に血に染まっていくのが、分かる。
「どうです? これでもまだ否定しますか?」
 ペロッと指についた血をなめると、淵静祈は抑揚のない声で挑発ともとれる言葉を吐く。
「き……ッ」
 瑞は足元に落ちている剣をつかみとると、
「さまぁぁ……!」
 その冷酷な薄笑いを浮かべ、目をほそめている男に突進した。
「!」
「どうしたんです?」
 切りかかり……振り下ろしたはずの剣は淵静祈の顔の前で止まったまま。
 スイ、とその剣先を彼の前から下ろすと、瑞は憎々しげに舌をうつ。
 時折、銀盃色に変わる薄墨の瞳はまるで……ふり下ろされる白銀の制裁を待っていた。
「死にたきゃ、勝手に死ねよ。……道具にされるのは、まっぴらだ」
 背中を向けた瑞は、軽蔑の目だけを淵静祈に向けた。
 そこで、瑞は戦意を喪失したように突っ立っているほかの兵に気がつく。彼らはあまりの展開の激しさに闘意もなにも、完全に萎えてしまっている。
 不機嫌に睨み上げると瑞はおもむろに剣を持ちなおした。
「……なんだ? 俺は今すこぶる機嫌が悪いんだ! おまえら死にたいならかかってきやがれっ」
「ヒッ!」
 戦意を喪失した彼らにそれに対抗する術はない。
 背中を見せると、ガシャガシャと金属音のまじった足音だけを残していく。
 ほ、と息をひとつきした瑞の背で、男の含んだ笑い声が落ちた。
 ふふ、と彼は楽しそうにうっすらと目を細めると、
「それもいいでしょう、かわいい方」
 言って、静かに瞼を伏せる。そのまま自らの首にザクリと剣の切っ先を突き立てる。
 私はもう十分楽しませていただきましたよ。
 心地いい痛みに、淵静祈はふっと、最期の微笑を口元に浮かべた。
 ドサリ、と長い廊下に最期の音が響く。
 瑞は壁に身をまかせた長身の青年に歩みよる。
「こ、うが……」
 瑞は膝を折り、彼をせつなげに抱きしめる。
 荒い息は生きている証……肌につたわってくる熱いほどの体温。
 ただ、それだけが……ひどく胸を締めつけた。


*** ***


 やめろ……!

 と、希昂は荒れる人波を押し分け、叫んだ。
 しかし、彼はただ安らかな微笑を返し 。
 瞬間、あれだけ乱れていた皇城前が、シン……と音を失う。
 左宰相の死。そのあまりの突然さに、冷水をかけられた賊軍の民たちは目的の行き場を失した。
 互いを探り合うように目線をうろうろと遊ばせる。
 ザワザワとさざ波のように何かを待った。

「民よ」

 と、それは彼らを導く道しるべのように、壇上から降った。
 その知性の眼差しと、気品の唇で唖然と仰ぐ民たちに話しかける。それは、まるで清い清水のように、時風に流され荒れ狂った彼らの心に染みいった。
 呆然と立ちつくしていた警兵隊もまた、彼女の声に急き立てられるように、菅伶翔の亡骸の処置にあたる。
 どうして、彼まで命を絶たねばならない……?
 問いかけ、希昂はふっと自分の愚かさに自嘲の笑みをこぼす。

 予感。

 それはあったのだ。
 あの叔父、由塁京が死んだ時から。
 それを承知で、自分はこの謀略を考えたのではなかったか?
 そう……それに、彼の死は不可欠だったはずだ。
 自分を見初め、育ててくれた男の声が響く。

 『国を守れ。』――と。

 叔父上。
 本当にこれで……。
 人を避けた希昂に、スルッと女の優しい腕が巻きつく。
「……梗衣」
 この騒ぎに、よほど警備が乱雑になっているらしい。
 ほんのすこし身元を隠したまとい着。良家の娘である彼女は、希昂の背中に頬を乗せて、言った。
「これで、いいのよ。希昂」
「……ええ」
 希昂は梗衣の腕をしっかりと握り返す。
 彼女の言葉が救いだった。
 それが嘘でも、気休めでも。
 望んでいた。
 その『答え』を。
「あの方は頭がいい方だもの。きっと国を建て直してくださるわ」
 すべての人の心をとらえ、風皇后の演説は今も続いていた。


*** ***


「テテテテテ……」
 長くつづく廊下の壁に座りこんだ恒牙は情けない声を上げる。
 彼の左肩には上着を裂いた布が巻きつけられている。
「恒牙って運がいいんだね」
 あと数ミリ横にずれていたら死んでいた刀傷に、合流した七郎はそんな感想を述べた。
「……かわいくねえな。どうして俺の力量だと言えないのかね? おまえは」
 口の減らない少年を恒牙は睨み上げる。七郎は立っているので、こうなるのである。
 それに。
「日ごろの行いのせいじゃあないか?」
 などと恒牙に追い打ちをかけるのは、窓の桟に腰をのせた翠連。なんだかんだと言いながら、彼らなりに心配しているのだとは思うのだが……。
「……ケガ人をつかまえて、そのイイグサはないだろう?」
 なあ……と瑞に助け舟を求めた恒牙だったが、当の彼女は生返事を返しただけだった。
 ガックリと肩を落とす恒牙を尻目に、
「……なーんか、いつもと感じが違うんじゃない? 彼女」
 ボーとしたような瑞の横顔を見ながら、七郎はポリポリと首筋をかきかき、首をかしげた。
「何かしたな? 恒牙」
「……何もしてねぇよ。今日は」
 意味深に流し目を送ってくる碧い瞳に向かって、恒牙は恨みがましい目線を返した。

 広い部屋にカラン、と何かが床に落ちる音が響いた。
 どれほどの時が経ったのか、愛蓮は喉をふるわせたかと思うと、軽やかな笑い声を立てる。まるで小鳥の囀りを思わせる美しい旋律で、けれどその放埒とした響きの奥には言い知れぬ狂気が、バランスを失くしたように存在〔ア〕る。
 赤い絹衣の裾を滑らせ、横にある大きな窓を開け放つと、川の冷たい風が一層彼女のむきだしの肩に突き刺した。

「貴方にしてはいい演出でしたわ。お義兄様」

 頬にはそのままの微笑を湛えたまま、言う。
 さらさらと流れの止まぬ川音は、バルコニーに足を落とした愛蓮の耳に、さらに一層大きくあたたかな音を刻んだ。
「青龍江を最期の場所にお選びになる……なんて」
 く、と喉を低くならすと、女はその恐ろしく整った顔を自嘲するように微笑ませた。


*** ***


「お……瑞!」
 突如響いた崩れるような女の哄笑に、瑞は知らぬ間に身体が動いていた。
 この先に何があるのか……そんなことは分からない。
 けれど……!
 乗り越えなきゃいけない。そんな気がしてならなかった。
 前に立ちはだかる、この客船のなかでもずばぬけて立派な扉。
 バン、と激しい戸の音を響かせ、瑞はそのなかへと足を踏み入れる。

 !

 ハッとふり返った愛蓮の瞳に、ひとりのまだ若い女の姿が映った。――どこか中性的なその姿態は、かろうじて女ということが分かる程度に、繊細なしなやかさをもつ。
 彼女は開けはなった扉に立ち、堕王の骸に一瞬動きを止め……そうして真っすぐとこちらに視線を飛ばした。――そのすぐ後ろには、左肩に剣傷を負った長身のたくましい青年。彼には及ばないものの長身で異国風の繊細な美貌をもつ青年と猛鳥を従えた少年が、ケガをした彼を支えている。
 ふっと愛蓮は目をほそめた。
 しかし、それは微笑みと言うには、あまりに……冷たすぎた。

 ただ、普通に笑めばいいというのに……。

 刹那、彼女はそれが息を呑むような壮絶な微笑を湛え、

(流……)

 バルコニーの手摺りから絹衣の裾をおどらせる。
 侵入者たちが息を呑んで声を上げた。
 感情をなくした深い闇の瞳は、ただ冬のかすんだ空を映す。
 ああ、貴方。
 こうしておけば…。
 あの日…私もこうしておけば良かった……。
 微笑むことさえも、忘れてしまうならば。
「! ……り、ゅう?」
 ふいに、あたたかな風が彼女の冷たく冷えた身体を包む。
 流……貴方?
 ふわっ、と安らかな微笑が彼女の頬に浮かぶ。
 涸れたはずの涙が宙を舞う。

 それは、光となって春の風に乗った。


*** ***


 青龍江に沈んだ青貴姫……青愛蓮の亡骸は、いつになっても上がってくることはなかった。
 川下に下ったという、話も聞かない。
 ――ただ人づてに、彼女の美しさは伝えられ、その悪名とともに人々の心に刻まれた。



0-7.追憶へ。 <・・・ 0-8 ・・・> 0-9.結之段へ。

T EXT
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