月之段.審判T


 ついに。

 激しく開け放たれた扉にゆうるりと瞼を開き、菅伶翔は次につながる言葉を待った。
 それは、大きな時代の流れ。自分に科せられた運命だ。
「左相様、大変でございます! 皇城前に……人が。皇帝を出せ……と。警兵隊が対処しておりますが……なにぶん数が多く……いつまでもつか…」
 不安げに瞳を上げ、警兵隊のまだ若い彼は伶翔を頼みにするかのように、黙りこんだ。
 ふくれあがった反皇帝の賊軍は、とうに警兵隊の統治力の域を越しているのだ。
 決断に一刻の猶予も残されていない。

「……しばらく、時間をもたせてくれ。ほんの数刻でいい。その数刻があれば、私が必ず……何とかしよう」

 ひざまずいた彼はその目を見開いた。
 今までに、こんなにも冴え澄んだ人の目を見たことがなかったからだ。
 片膝をついた形のまま、慌てて頭を下げる。
「……はっ」
 まるで何かを……決したような……。
 それは、彼に問うことをはばんだ。
 見ることさえも許さなかった。
 ただ、黙して、そのことを隊長に告げねばならないと、妙な遂行心を駆りたてた。


*** ***


 船がある。
 青薇の下を通る青龍江のほとりに、まるで今にも流れに身をまかせてしまいそうな落ち葉のように、船がある。
 それは、ただびとの持ち物ではない立派すぎる船体で、静かに主の命を待っている。

「探せ……って言われたから探したけど」
 船のそばを蠢くいくつもの小さな人影。
 彼の人懐っこい黒の瞳には、その動きが逃されることなく、怖いほどの確かさで映っていた。
 細め――長身の青年は、すこし上ったところにある小高い丘で、呆れたような感嘆の声を洩らす。
 「…ほんっとにあるんだもんなあ」と。
 指示を下した男のことを、彼はあんまり信用していなかった……というよりは、信用したくなかったのだが。
 苦笑いを浮かべた青年の横、バササ……と一羽の猛鳥が自己主張をする。
「分かった、分かった。船を見つけたのはおまえだ、カイ」
 どーどーと手のひらをカイにかざし、恒牙は前に進み出る。
 足元に転がるゴツゴツとした大きな石に、左足をかけ、ぐるりと三人の顔を見渡した。
 それぞれがそれぞれに長身の彼へと目線を上げる。
「ま、とにかくもそういうワケだ」
「……今が時期ということか」
 女とは思えぬ鋭く澄んだ瞳が呟き、
「見たかぎりじゃあ、思ったほど兵力はたずさえてないようだし……頃合い、だな」
 と、ほそめられた碧い瞳が一際深く澄む。
「船が動き出したら、手が出しにくくなるしね。早い方がいいよ、やるなら……さ」
 少年の勝ち気な瞳が強く恒牙を急かせた。
 彼の言うように船が動き出せば、もはや彼らでは手のほどこしようがないだろう。
 腰の剣に手をのばし、恒牙はその瞳を鮮やかにひらめかせる。

「……俺と瑞は船首を行く。二人は船尾部を行ってくれ」

 言うと、順番に目線を合わせ、瞬間ゾクリとする闘気。粋なほどの不敵な笑みを乗せる。
「作戦は柔軟に、臨機応変にな!」
 ク、と彼らしい決行の合図に翠連は笑いをふくんだ。
「結局、無策なんだよね、恒牙って」
 肩をすくめた七郎の顔は、その馬鹿にしたような言葉とは裏腹に大人びた不敵な笑みをふくんだ。

 ガサ……
 青龍江のほとり。大きな客船が間近に見える茂みに身を潜めた瑞は、静かに息をつめた。
 両肩から胸へ、恒牙の腕が強く彼女を抱きしめる。
「!……ッ」

「…おまえは、俺が守る」

 すぐそばに強く柔らかな黒の瞳。
「守らせてくれ――それだけでいい」
 それだけを告げると恒牙は茂みから抜けだし、翠連と七郎に決行の合図をくれる。

 ……恒牙。

 ふと、彼の腕につかまれた肩が熱い。
 一瞬見えた恒牙の真剣な眼差しが胸に痛かった。
「……俺は」
 予期せずのぼった自分の声の先は、脳裏にもよぎらず、疑問となって薄くかげった空に消える。
 遠のいていく恒牙の背中に、瑞はそっと手を開きかけた唇にあてた。
 なぜ……と。
 こぼれそうになった言葉が何なのか、彼女自身にも分からなかった。


*** ***


 船のなかで一番広い部屋。いくつもの大きな観音開き式の窓の向こうにはバルコニー。その下には、今もむかしも清らかな青龍江の隆々たる流れがある。
 冬のそれはすこしもの寂しげで、見るに耐えなかったが。
「なんということだ……」
 堕王、肖治敬は、自分の置かれた状態に頭を抱えた。
 追っ手がきていると言う。
 それは、刺客だと……言うのだ。
 なぜ……と思い、それでもまだ自分の破滅を知らない顔で、純白の絹衣をまとう愛蓮に笑みを浮かべた。
「心配ない。刺客と言っても四人だと言う。手勢は少ないが、それでも今日のために護衛は三十人ほど雇い入れたのだから」
「ええ」
 答える声は抑揚なく、彼の胸に身体をあずけた。長く黒い髪が治敬の指にからみつく。
「……おまえのために余は民を捨てた。おまえのために余は忠臣を捨てた。おまえのために余は、国を捨てた……ただ、おまえだけのために……ッ」
 まるで、そのすべてを取り戻そうとするかのように、彼は女をかき抱いた。強く、激しく。
 白くなめらかな肌、つややかな長い黒髪、甘く深い闇の瞳、鳥の囀りのような繊細な声……。
 このこよなく美しい女さえいれば、ほかには何もなくていい。

「……ええ、貴方。……エエ」

 愛蓮は彼に抱かれ、そして目を閉じる。
 川の流れが聞こえる。
 さらさらとその音だけは、春の音に近い。
 愛蓮のスッと開けられた瞼の向こうには……。
 向こうには。

「 ! 」

 突如襲った異変に、肖治敬の顔が醜く歪む。
「……く……ぐ」
 ぐっと一層、女を抱く腕が強くなる。激しく愛蓮のまとう絹衣が泣いた。
 ポタポタと深紅地の絨毯に赤い華が咲く。
 しかし、女の黒曜石の瞳はどこまでも深い闇のまま、彼の背中にまわした腕をさらに内に引きよせた。
「ガ……ッハ……ッ……」
 苦しさに目を大きく見開くと、治敬は愛蓮を問うように見る。

「……あ、いれん……な、ぜ……?」

 何とか身体を支えようとして、彼の指は彼女の身体で惑い……そして、ガク……と膝が崩れると、無駄と分かったように女の肌を嘗め落ちた。
 赤い華は大きく広がり、倒れた治敬の周りを鮮やかに飾り立てる。
 彼女の瞳は、彼の背中から胸にかけて貫かれた剣にそそがれ、笑んだ。
 それは、鮮やかに。

「なぜ……ですって?」

 歪んだ唇から吐き出された鴬鈴の声は、いつもの繊細な調べでありながら、しかし聖女のそれではない。
 堕王の胸から床へと広がる血は、皮肉にもあの日見た色と同じ……目に痛いほどの鮮やかな赤。ム、とけぶる鉄くささもまた、あの日と同じように鼻を突いた。
 愛しい者と憎い者――両極端な彼らから出るそれは、けれど残酷なほど似すぎていた。
 鮮やかに激しく、風にあおられた炎のように愛蓮の双眸は狂おしく高らかに燃え上がる。
 彼の背中を貫いた剣の柄に手をかけ、
「当たり前ですわ、お義兄様。私が貴方を愛す……とでも、本気でお思いでしたの?」
 笑止、とばかりに彼女はクッと嘲りを口に洩らす。と……同時に、

 紅い閃光。

「……グゥ……ッ」
 苦しげな男の声とともに、笑みを湛えた女の白い頬に、パッと鮮やかな赤い飛沫がはねる。
「心底、おめでたい人間ですわね。お義兄様って人は……。
 私が欲したのは、貴方の命……それだけだと……どうしてあの時。流が死んだ時に……!」
 すこし寂しげに瞼をあさく伏せ、床に目を落とす。 そこに転がっている苦痛に歪んだ義兄の顔。
 彼女は、くすくすと心地いい笑い声を立てた。

 望んだ顔は、今『ここ』に、ある。


*** ***


 女の軽やかな笑い声。よくとおるその声は扉の向こう、長い廊下の先にも響き、聞こえた。

「 ! 」

 剣をふりかわしていた彼らにもそれは届き、思わずその不穏さに手を止める。
 その中。
「青貴姫様…いえ、愛蓮様。ついに『想い』を」
 黒髪に不思議な色の瞳……それはまるで淡い黒……の青年がうす笑みをこぼした。
「瑞……気をつけろ。コイツ尋常じゃない」
「……ああ」
 恒牙のひそめた声に瑞はちいさく頷いた。
 幾数人かの兵のなか、彼だけが異質だった。武官ではない……というだけでなく――静かすぎる瞳や冷酷な笑み、落ち着いた……というには彼だけがあまりに狂気じみている。

「これは……」

 いま気づいたというように彼は瑞のところで目線を止め、その無気味な薄墨の目を芝居じみた格好で見開く。
「それも一興か……」
 心を過ったなにかに満足したのか、くすりと一笑する。
「淵静祈様!」
 彼が兵のなかから進み出たので、近衛兵のひとりが驚いたように彼を呼んだ。――武官でもない彼が剣を引くのは、よほど珍しかったのだろう。
 けれど、彼のほうは気にするふうでもなく、ただその口には冷酷な笑みがいつまでもうずいている。
 なぜだか、瑞の背筋にもいつの間にか冷たいものがつたっていた。
「………」
 サ……と一歩あとざする。
「貴女には、伝い手となってもらいましょう」
 彼は剣を構えるとそう言った。
 不可解なその言葉に瑞は怪訝な顔をする。
 すると、
「だって、ねえ、かわいい方。歴史には伝い手がいなくては話にならないでしょう? たとえ、どんなにすばらしいシナリオがあったとしても……ね」
 やけに親しげに語りかけながら、優しくほそめられた彼の薄墨色の瞳は、ゾクリとするほど冷たかった。



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