風之段.追憶


 バササ……と羽音を鳴らし、猛鳥は少年の細い腕に舞い降りる。
「ご苦労だったな、カイ」
 少年は猛鳥の足から白い紙を受けとると、ねぎらいの言葉をかける。
 少年にただひとつ残された宝は、その琥珀の瞳をただゆうるりと揺らした。

「おまえがいて……よかった」

 何もかもなくしてしまった、と思っていたあの雨の日。
 この猛鳥がこの琥珀の瞳で、立ち上がることを教えてくれたのだ。この何も語らぬ自然のするどい瞳が……。
 七郎はカイの身体にぬくもりを求め、額をよせる。
 大丈夫。
 もう二度とあやまちは繰り返さないから……。
 七郎の手のなかで、白い紙が沈黙を守っていた。


*** ***


 あれは、清葉の年号が変わって、しばらく経った頃のことだった。
「おとう……?」
 もともと貧乏な農夫の父は、突き上げられたその年の年貢をはらうことができず、粗末ではあったが住み慣れた家と田畑を捨てようとしていた。
「おとう……」
 強く引かれる手に、父の願いが聞こえるようだった。
 家族は手に持てるだけのわずかな衣服を抱え、追っ手から逃れられる山の峠を目指した。そこを越えれば武官たちは管轄が違い、手を出せなくなる。
 しかし。
 峠を目前にした山中で――。
「ガ……ッはッ……」
 しっかりと握られていた手が急に力を失せる。
 ヒラリと、衣服とともに持ってきていたリボン紐は少女の手を離れ、地に広がった赤い海に沈んだ。
「おとう!」
「……ず……い……お、まえ…だけは……!」
 血に濡れた父の手は次第にぬくもりをなくしながら、祈りだけを彼女に渡した。折れた膝は支え方を忘れ、もたれ掛かってきた身体を前のめりに倒す。下敷きになった草がザ……と一際騒ぎ立った。
「! おとう! やだぁ…死んじゃあ」
 武官たちに手を押さえこまれても、瑞は地に伏した父に嘆願した。事切れた彼の指は、もうピクリとも少女の声に反応しない。
 それでも。
「おとう、おとう……!」
 名を呼び、いつものように応えてくれるのを待った。……もう無駄だと目の前の現実が語っていたのに。
「逃げろ! 瑞。おまえは女だから……だから、生き抜け!」
「にい……!」
 ひとり武官たちの手から逃れた瑞に、一番上の兄が言った。兄の粗末な着物は、武官の振るう剣によって切り裂かれ、血に染まっている。
「はやく……!」
「にい……」

「行けーーーー!」

 その声に、瑞は急き立てられるように走り出した。振り返ることは許されなかった。
 たとえ、後方で兄弟たちの断末魔が聞こえようと。 たとえ、すぐそこに武官たちの足音が迫っていようと。
 足に無尽蔵に生えた草花が手を伸ばす、鋭く冴えた枝が少女の肌に刃を立てた。

「おとう……にい……ッ!」

 瑞は走りながら、必死に耳を両手で覆った。
 ぐわっと山が最後の嘶きをおこす。
「にいィィィィィ!」

 振り返ることは、許されなかった。


「 俺は! 」
 と、捕ったまま放さない恒牙の手を振りきると、瑞は嫌なほど上にある彼の顔を仰いだ。
「……いい加減、冗談とか思うなよ」

「 ! 」

 期待に反して、人懐っこく柔らかな瞳は残酷なほど真っすぐに返ってくる。
 なんで……!
 『オマエガ好キダカラ。』
 いつもの脈絡のない行動と同じ、悪い冗談だと、甘えたかった。今までと同じように……そうさせて欲しかった。

「俺は……」

 ギリ、とこぶしを強く握る。
 こんな時に限って。
 父の死に顔が。
 兄弟の願いが。
 叫びが…聞こえる。
「ッ――やめろッ!」
 叫んで、恒牙に向かって腕を振り放す。鋭く冴え澄んだ瞳が、恒牙を容赦なくはねつけた。
 俺は違う。
 絶対に。
 絶対に――ッ!
「悪趣味だ、恒牙。何考え、て……ッ」
 ようやく堰を切りはじめた言葉の列は、最後まで言うことができなくなる。

 強い力によって引き寄せられた身体は、動くことさえかなわず。ただ、目の前に柔らかな黒の瞳。
 その彼の唇は離れると、囁いた。
「……おまえは女だよ。俺にとっちゃあ一等大切な。でなきゃあ、俺がここにいるワケがないだろ?」
「な……」
 瑞は瞳を前髪の奥にひそめたまま、肩だけをかすかにふるわせ、
「な、にしやがる! この変態ッ」
 押さえこまれた腕を振りきり、瑞は恒牙の足のすねを思い切り蹴り上げた。
「いッ…〜〜〜〜〜〜」

「 ……二度と 」

 グイッと口元を手の甲で拭うと、十分傷ついた瞳が痛みに身をかがめた恒牙を鋭く睨みつける。
 はじめはほんのかすかな呟き。
 最後は。
「二度と俺に、触れるな!」
 突くようなせつない叫び。
 歯がみをして顔を背けると、瑞は振り返ることなく部屋を出た。
 何も聞きたくなかった。
 何も知りたくなかった。
 宿の廊下を速足に……ゆっくりと立ち止まり、閉めきられた窓の外を仰ぐ。
 木枯らしに、幹枝だけとなった木が揺れている。
 寒さを増した外気は、どこからか瑞の肌を突き刺した。
 そっとまだぬくもりの残る唇をなぞる。

(……やはり、無理なのだ)

 男にもなれない。女にも戻れない。
 そんな俺のことなど、なぜ……好きになる。
 恒牙……。
 瑞はせつなげに瞳を歪めた。
 窓ガラスにその姿が違うとこなく映る。それは、まるで少女のように、瑞を見つめていた。


 恒牙はただ天井を仰いだ。
 薄黒いシミは、その殺風景さを更にもの悲しく見せる。
 どうしても黙っておくことができなかった。
(そう……どうしても……!)
「瑞……」
 呟き、恒牙は不愉快そうに顔をしかめる。
「…おい、いつまで黙って見ているつもりだ?……翠連」
「おまえがそうやって言い出すまでだよ。耐えきれなくなってね」
「……そりゃあ、よかったな」
 舌打ちをする。
 どうも自分には、こういう悪趣味なヤツが身近に多いような気がする。
 あの――くそ官吏を筆頭に。
 碧い瞳は静かに恒牙を見つめ返した。
 肩にかかる結い上げた髪をはらい、
「七郎からの呼び出しだ。連絡がきたってことらしい。待ちに待ったあの方からの連絡。嬉しいだろう?」
 深く碧い瞳が恒牙をさぐった。
「はっ。やっとか? 待ちくたびれて嬉しくもなんともないねっ」
「まったく、ワガママだな。作戦にそれはナシだぜ」
「誰に言ってやがる……!」
 人懐っこい恒牙の瞳が、するどく翠連を睨んだ。一時清葉をはやした偽狼集団頭、恒牙の名。それは伊達ではない。
 その恒牙の見幕に翠連は苦笑をこぼす。
「……これは、いらぬ忠告だったか」
「仕損じるワケにはいかないからな。あいつのために」
 ふ、とゆるやかに口元を曲げ、翠連は深く碧い瞳を真っすぐに恒牙へと向ける。みごとに、鮮やかなそのタイミングは、恒牙に転機を与える。
「で、七郎は?」
「それより、まずは瑞じゃないのか?」
 心を覗かれたような、その言葉に目を見開き、恒牙は弱ったようにくしゃりと髪をかき上げる。
 プ、と前髪に息を吹きかけると、仕方ないとでも言うように、奥に不快な深みをもつ碧い瞳を顎でしゃくった。
「……分かった。行くぞ」
 二人は揃って部屋を出る。
 誰もいなくなった部屋の窓からは、皇城がかわりなくそびえていた。


*** ***


 左宰相の部屋の前。
 玲希昂は静かなノックの音を響かせた。
 中から聞こえた許可の言葉に、扉を開く。
 左宰相、菅伶翔と顔を合わせるのは久方ぶりだった。右宰相、由塁京がまだ生きていた頃以来、まともに顔を見たのはそれ以来だろう。
 間近で拝見すると、よけいに彼の苦労が目に映るようだった。
「……士官省、玲希昂英領、貴殿からのお呼びにより参上いたしました」
 ひざまずき、敬礼する。
「……よい。おぬしにそれは似合わぬぞ。希昂」
「………」
 伶翔の言葉に希昂は黙ったまま、礼を取り続けた。

「呼びつけた用件というのは、ただ確かめたかったのだ」

「? 何をでしょう?」
「皇帝のことだ」
「………」
 ふっと伶翔は口に笑いをふくむ。

「『黙す』か。やはりな、分かっていた……」

 あいつはおまえに託したのだな……。
 昔を懐かしむように外に目をやり、御簾に閉ざされた窓に身体をよせる。
「知りたかったのは、それだけだ」
 ジャッと音を立て、外の光が飛びこんでくる。
 今度こそは、私もおまえの願いに力をかそう。

 私の罪のために。


*** ***


 夜明けの近い空は窓の格子をほの明るく照らし、闇に彩られた白いベッドに、その文様を描きだした。それは梗衣の白く健康的な肌にもおぼろげに落ちる。
「どうしたんですか?」
 無表情に窓の外を見遣る彼女に向かって、希昂は含みをもったおだやかな笑みを浮かべる。スルリと彼女の身体を後ろから優しく抱いた。

「 東宮で 」

 抑揚なく彼女は東宮を口にした。
「東宮に……行ったんですか?」
 おだやかな笑みのまま、しかし裏腹に静かすぎる声で希昂は繰り返す。
「そうよ」
 先刻よりすこし生気を帯びた声が頷くと、大袈裟な溜め息がその後ろで咲いた。
「流石、了家の娘ですね。今の情勢で東宮のなかに入ることを許されるなんて、名家の証拠ですよ」
「そうかしら」
 震える声は彼を責めるように問い返す。
「そうですよ」
 パシ、と希昂の手が鳴った。

「茶化さないでっ、希昂!」

 バッと向き直ると、梗衣は自分を抱いていた彼の腕を払いのける。
「傷ついてらしたわ、皇后様はっ。皇子だって、まだあんなに幼くて……」
「梗衣」
「わたしは怒っているのよ、希昂。貴方が勝手にことを進めるから!」
 いつその口からさりげない報告でもいい、自分に伝えてくれるだろう……梗衣は期待していたのだ。
 けれど、一向にその気配はないまま、東宮を口にしてもこの有り様。梗衣は悲しかった。
 その彼女の精一杯の訴えを、……なのに、このおだやかな男は、それをただのひとつの微笑みで打ち消してしまう。

「梗衣、彼女はほかにも何か……言っていたでしょう?」

 と、真っすぐな彼女の瞳に向かって、希昂は愛しげに笑んだ。
 確かに、今、自分が行おうとしていることは、多くの人の不幸の上にこそ成り立つ。いくら彼との「約束」だとは言っても、その罪が軽いワケもない。
 けれど。
 それでも、この真っすぐな瞳を守るためならば、それもいいと思うのだ。
 この眼差しを潰すくらいなら…。
「違いますか?」
 諦めたように梗衣は視線を希昂から外した。
「……あの方は気づいてらしたわ、すべてを」

『破滅が待っている……それを知っていて手を施さないでいるのは罪であろうか?』

 寂しそうに、けれど美しく。
 彼女は外で震えている枝の小鳥へと視線を移し、瞼を深く伏せて、そう口ずさんだ。答えを求めるワケでもなく。ただ、自らを問うように。

「……やはりね」

「これも予測していたの? 相変わらず」
「嫌な人……ですか?」
 その笑いを含んだ言い様に、戻しかけていた目線をまたプイ、とそらして、梗衣は「そうよ」とつっけんどんに言った。
 次第に白けてくる薄暗い部屋のなか、彼女の横顔が柔らかな光を反射する。
 ふと、希昂はからかいの色を消した。
「貴女は……私が誰かに殺されたらどうします?」
 真剣味を帯びたおだやかな声で、彼は愛しい女を呼んだ。それに、彼女はチラリと視線を滑らす。
「それは……『死に追いやられる』ってことかしら? ――つまりは」
「まあ、そうですね」
「無実の罪を着せられて……」
 瞬間、黙り込み、「恨むわよ」と静かに呟く。
「当然でしょう、そんなこと」
「梗衣……」
「だって、わたしを頼ることも、信じることもしなかった貴方を、恨まずにいるなんて……お人好しもいいところじゃない。
 そんな『馬鹿な女』じゃあなくってよ、わたしは」
「………」
「彼女は『馬鹿』……なのですわ」
 希昂は梗衣の背中にするり、と腕をまわし、強く力をこめる。
 敵いませんね……心でそう苦笑しながら、けれどこの男は微塵も出さずに、
「彼女……というのは誰です?」
 と、言った。
 彼の胸から顔を持ち上げ、梗衣はその上にあるおだやかな笑みを睨みつける。
 結局、この男はこういう……。
「……分かってたこと、でしたわね」
「何か?」
 「いいえ」と、そしらぬふうに首を振り、梗衣は悪戯っぽく笑う。
「残念ね、わたしが彼女みたいなお人よしじゃなくて」
 挑むような真っすぐな瞳に、希昂は楽しそうに瞳を細めた。
「そうですね」
 胸の中に彼女を包み、希昂は唇を彼女の額に押し当てる。
 そうして、窓の向こうを仰いだ。

 今、この朝焼けを、彼女はどんな気持ちで見ているだろうか。


*** ***


 いつか、貴方は言った。
 青龍江に舟を浮かべ、旅をしたい……と。

「……それに、おまえもついてきてくれるか? 愛蓮」
「ええ、喜んで。貴方様さえいてくだされば、愛蓮はなにも望みはいたしません」
 真実、心からそう思い、愛蓮は彼の胸のなかで囁いた。
 親帝、肖流〔ショウ リュウ〕。愛蓮が心から愛した、ただ一人の男。
「そうか。いつか、それが現実になるよう、私は画策でもしたためねばならんな」
 そう冗談まじりに、けれど半分は誠意のある声で言った流に、愛蓮は悪戯っぽくその胸から顔を上げる。
「それなら、私も一役買いましてよ? 流」
 そんなことをせずとも、現実になると、愛蓮は信じていた。彼にはそれだけの力があったから。
 そんな彼から「兄に会ってほしい」と、話があったのは、若葉わかい、夏のはじめだった。
「え? ――あのお義兄様が?」
「ああ、久方ぶりに会いたい……と言ってきてね」
 異母兄弟とは言うものの、彼らは十分に仲が良かった。正室の兄を弟はよく慕い、側室の弟を兄はよく可愛がった。
「確か、君と会うのは初めてだろうから、驚かせたい。君みたいな国土無双の『美女』を、めとったとは思ってもないだろうからね」
 子供のようにそう、肖流はくすくすと笑って見せる。
「楽しみですわ。あの名君名高い皇帝様に会えるなんて。貴方様のお義兄様ですもの、噂どおりきっと立派な方に違いありませんわね」
 愛蓮はただ素直に目の前の幸福を噛みしめていた。それが、すべてを崩すとは思わずに……ただ彼の瞳のなか、幸せそうに微笑んだ。

「流……?」

 春近い冬。
 ようやっと、蕾にふくらみを感じるようになった頃のこと。
 目に浮かぶのは、寝室に広がった一面の赤い血…。
 その時のことを、忘れることはない……そう、決して。
 幸せだった時と、ちょうど同じ深さで胸に刻みこまれてしまったから。
「い、や……」
 血に着物がぬれるのもかまわずに、愛蓮はそこに伏す流親帝に手を伸ばした。
「……流……貴方っ! おかしな冗談はよして、起きてください!」
 揺り動かし、その身体が力なく崩れると、絶叫した。
 もう、語りかけてもくれない。
 おだやかに笑うことも。
 優しく抱いてもらうことも。
 からかって、怒って、すねて……愛してもくださらない――…!
 夢中で否定した。
 気が遠くなる…。
「起きて……はやくっ。流!……りゅーーーーーう!」

(流…)

 貴方を陥れた皇帝は私の手で。
 貴方が夢見た、青龍江の上で……。

 『おまえもついてきてくれるか?』

 ええ。貴方。
 今も、私は――…。

 にわかに朝日が彼女を映し出す。
 彼女は皇城から逃れ、今は数名の供だけを従えて青龍江を目指していた。
 冬の朝はまるで容赦を知らずに、彼女の肌をつきさす。
 黒い髪が彼女のなめらかな肩から流れ落ちた。
 夜が明ける。
 朝焼けにそまる空を愛蓮は仰いだ。
 鮮やかすぎた約束を断ち切るように。



0-5.飛翔Uへ。 <・・・ 0-6 ・・・> 0-7.審判Tへ。

T EXT
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