鳥之段.飛翔U
「陛下……皇帝陛下! はやく目をお覚ましになってくださいまし。まだお気づきにならぬのですか? ……貴方はあの女にたばかられておいでなのですっ」
女の声が静かな皇城の玉座の間に響いた。
金切り声になった女の声。けれど、その中には怒りにまかせてもなお、消えぬ知性と気品がある。
皇后、風愁桜〔フウ シュウオウ〕。
口元に気品、瞳に知性。三十を過ぎたというのに、彼女の美貌は色あせる気配がない。神々しいばかりの美しさは失ったが、成熟した落ち着きが彼女の知性の瞳に深みのある魅力を与えた。
「愁桜……余はたばかられてなどおらぬ」
女の心からの忠告も、皇帝、肖治敬の心には響かなかったらしい。苛立ちを隠さぬ声で答える。
「貴方……すこしは国のことも考えてくださいまし。このままでは、国がっ。国がつぶれてしまいます」
まさか、と一笑に伏そうとする夫に、愁桜は強い眼差しでいさめた。
「いいえ、冗談などではありませんわ。さきほど起こった反乱が皇城まで迫っているのです。貴方……皇子のためにも、国を守ってくださいまし」
めずらしく強い語気の彼女に、治敬帝はわずかに視線をはわせる。
切実な母の願いは、父、治敬帝にいくらかの清水を与えた。
思案をめぐらし、
「……考えさせてくれ」
躊躇してはいたが、確かな迷いが彼に起きた。
「……わかりましたわ。けれど、決断はお早めになさいますよう」
お願いしましてよ、と彼女は長い絹衣の裾をひるがえす。
「 ! 」
扉をあけたところで、愁桜はちいさく息を呑んだ。
「……ごきげんよう、青貴姫」
「お久しうございます……風皇后様」
気品の唇に、愛蓮は聖女の唇で答えた。絹衣を両腕でヒラリと広げ、礼をする。まるで、蝶が羽を広げるような優雅な物腰。
愁桜は気高くそれにこたえ、横切ろうとした。
「 『皇子』を大切になさることですわ 」
ほんのちいさな囁きが耳にすべりこむ。
「!」
振り返ったところにすでに愛蓮の姿はなく、ただ絹衣の裾だけが玉座の間にすべりこんでいた。
「 ……… 」
くるりと踵を返し、風愁桜は廊下を颯爽と歩く。
人は貴女を愚かと笑うかもしれない。
けれど、私には貴女の気持ちが痛いほどわかるから。
だから、青貴姫。
私は貴女を憎めないのです。
……ただ、風の吹くままに。
皇后の知性の瞳に傷ついた小鳥の行く先を案ずるような、哀れな同情が揺れて……消えた。
「どうなさいましたの? ――皇帝陛下」
部屋に入った愛蓮は、厳しい表情になった彼を溶けるような微笑で迎えた。
「風皇后様がお見えになられていたようですけど、なにかございましたの? あの方が東宮からお出になられるなんて……」
「……愛蓮。余はおまえを愛している。それが違うことはない。信じてほしいが……」
「わかってますわ」
「愛蓮……?」
潔い彼女の声に、治敬帝は垂れていたこうべをもち上げた。
聖女の微笑は悲しげに崩れる。
「もう……手遅れですのね。私がいては……この国がつぶれてしまう」
「……あ」
「けれど、……私は死にたくはありませぬ。どうか……どうか私と逃げてくださいまし、貴方」
ユラユラと彼女の黒の、どこまでも深い闇が頼りなげに揺らめく。
「私を……」
『愛していると言うのなら……』
皇帝の腕が愛蓮を強くかき抱いた。
「愛している……愛している!」
伏せ目がちに開けられた黒の瞳は、皇帝をつかまえてはなさない。
まるで涙を湛えたような、はかなげな蠱惑の闇。
「きっと、貴方と私がいなくなったと知ったなら、民たちも許すことでしょう」
「愛蓮……すまぬ」
「いいえ。いいえ、貴方……すべては私が犯したこと。今、私が欲しいのは『貴方』だけですわ……」
治敬帝の腕に抱かれ、愛蓮はキュッと背にまわした指に力をこめる。
その胸に接吻〔くちづけ〕ながら、彼女の瞳は黒くふかく……静かに燃え上がる。
部屋の裾で一部始終を見ていた薄墨の瞳は、おかしげに目をほそめた。
銀杯色にひらめく。 「こうも簡単に、破滅というものは流れ出すものか…」
その日、皇城の木に最後まで残っていた木の葉が強い風にさらわれ、空高く舞い上がった。落ちる場所はいずこか。見た者はいない。
*** ***
思いだすのは。
父と母の暖かい腕。
兄弟たちの悲痛な願い。
俺はそんなことを望んじゃいなかった。
おまえだけは生きてくれ。
彼らの声が今でも耳元で囁く。
「おまえは女なんだから」と。
恒牙に会うまでは、強がって男のフリをした。
すべて男になりきろうと、ヘタな馬鹿をやって満足していた。『それ』が自分の忘れたい過去を消し去ってくれると、信じたがっていたから。
…今は。 そうではないと、気づいている。
彼らはただ、自分に生きてほしかっただけなのだ。
けれど、それでも自分は女として生きていけるのかどうか。
時折、思うのだ。
あの時、女の自分は死んだのではないだろうか……と。
皇城にほど近い宿場。
もはや、暴動というには大きくなりすぎてしまった反乱のせいか、客の入りはすこぶる悪い。
常緑樹よりは落葉樹のほうが多い皇城周辺の木立は、吹き描いたようなシルエットで、いつの間にかすっかり冬の装いへとうつっていた。彼らは寒そうな幹枝の姿をさらしながら、足元にはしっかりと落ち葉の布団を用意している。
「なぁに考えてんだかなあ、あの官吏は」
目の前の五目板を睨みつけながら、恒牙は横の窓をしきりに気にしていた。
また言ってる……そこにいた誰もが、そう心の中で呟いた。この宿屋に身をおいてからというもの、その台詞は彼の口にへばりついてはなれないらしい。
「短気は損気だよ? 恒牙」
子供のなりした少年が、大人びた沈着な顔で五目板の駒の行方を見守る。
「自らがあの人の作戦に乗った以上、黙って待つほかありませんからね」
本に落としていた碧の瞳をわずかに上げ、翠連もまた微笑む。鮮やかな服にその笑みはよく映えた。
いまいましげに恒牙は舌打ちをする。それは窮地に追い込まれた五目板の戦況のためか、それともやけに落ち着きはらったふたりの言葉のためか。はた目から判断することはむずかしい。 「やめだ、やめだッ! こんなゲーム。やってられるかよ」
五目板から士気の失せた瞳をそらすと、彼はそのまま開けた窓を眺めやる。
その横柄な態度に、七郎は怒るふうでもなく、ただちいさく肩をすくめた。
これでは、どちらが大人か分からない。
「 恒牙 」
「どうせ、俺は短気だよ。瑞、ほっといてくれ」
「ま、そうしておいてもいいけどね」
ますます憮然と顔をしかめる恒牙を眺め、瑞は微笑をたたえた。
「でも、俺はおまえのその性格、けっこう好きだし、七郎と翠連だって悪い意味で使ってないんだから、そう怒るなよ」
「……瑞」
「なに?」
急に声色が変わった恒牙に、瑞は一瞬違和感を感じた。それは、まさに一瞬で、次の瞬間には脳裏から離れるほどのものだったが。
「俺って、そんなに短気か?」
「? そうだな、わりと」
皇城を見つめていた瞳を瑞の顔へとすべらすと、恒牙は皮肉げに瞳を細めた。
「……おまえ、知らないんだ。俺ってけっこう、気が長いんだぜ」
*** ***
側近、淵静祈とわずかな近衛兵をひきつれ、皇帝、肖治敬と貴姫、青愛蓮が皇城から忽然と姿を消したのは、蓮翔が七から八へと移った、年も初めの頃のことだった。
「誰か、左相様にご連絡しろ……!」
皇帝のいなくなった玉座をその瞳に映し、警兵隊の長は苛ついた様子で下の兵に命令した。
もはや、皇帝の誇りまでも喪失くしたか。
扉の向こうへと足音が遠のいていくのを確かめながら、彼は嘲り……思わず声を立てる。
「ふん、こんなヤツの下で働いていたかと思うと、我ながらウンザリするな」
その瞳にかけらの敬意も忠誠心も、残ってはいなかった。
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