花之段.火種
皇城、玉座の間。
ひどく取り乱した様子の左宰相、菅伶翔〔カン レイショウ〕は、乱れた髪もそのままに、その神経質そうな顔を引き結び、ひざまずいた。
「何ごとだ、左相」 乱暴に開けはなたれた扉に顔をしかめ、玉座に座る皇帝、肖治敬は、彼のその慌てように一様の関心を抱く。
ただ、すこし前から感じている左宰相との意識のずれはいまだこの空間に居座って、立ち退く気配はない。
いや、それはさらに深みをおびたのではないか。
「はっ。それが……」
伶翔は言いよどんだ。皇帝の側をまるではなれようとしない青貴姫の姿が、今では黒い暗雲のように目の端について離れないのだ。
いや……と伶翔は自分のその表現に、思わず苦笑がこぼれそうになる。
純白の絹衣を上品に着こなした彼女に、暗雲は似つかわしくないな。
破滅の女神か。
いつの頃からだったろうか。ただ寄り添うだけの彼女が、非情な妖女のように映り出したのは。
清らかな聖女の微笑みの裏に、鬼姫の情炎。
なぜ、それに治敬帝様はお気づきにならないのか……。
「……青蘭〔セイラン〕で、暴動がおこりましてございます」
「なに……ッ!」
「……あああ」
驚愕した皇帝の腕に、青貴姫のしなやかな白い腕が巻きつく。彼のでっぷりと太った身体に、か細い身をよせた。
そのほっそりとした顔は恐怖におののき、助けを求めるように歪められている。
「ああ、何ということでしょう。貴方……私は怖くてなりませぬ。民は私を……愛蓮を裁きに来ると?」
「愛蓮!」
と、皇帝は強く否定した。
「それは誤解と言うものだ。汚れなきそなたを、だれが裁きに来るというのだ。これはただのこぜり合いに過ぎぬ。安心いたせ」
ふっと愛蓮の強ばっていた頬に、安堵がはしる。
「真実……ですのね?」
その美しい黒曜石の瞳は不安げに皇帝を見上げ、彼を鮮やかに誘った。
皇帝はやさしく彼女を抱きしめる。すべてを忘れたかのように。
伶翔はひざまずいたまま、皇帝の退室の命を予感した。
……おまえならどうする。
「何をしている左相。姫が怖がっているではないか。下がれッ」
「……はっ」
瞼を伏せ、玉座をあとにする。
ゆっくりと扉を閉め、伶翔は失脚した好敵手を思い描いた。
あの時。
私が保身に走らずにいたなら、おまえの運命はまた違っていたのかも知れない。
それは、皇帝の運命さえも変えたのか。
そんな後悔が打ちひしがれた彼を責めたてた。
*** ***
蓮翔七年、十月。
一揆を発端とした暴動により青蘭、陥落。
反旗が強い風にはためいていた。
勝利の咆哮をうち鳴らし、彼らは天に血にまみれた剣を突き上げる。
「勇気をもて、大切なものをこれ以上あの暴王に奪われないため!」
「大切なものを守るため!」
「我々の、未来のために――!」
それぞれの武器を手に、彼らは時期が満ちたことを大地に知らしめた。
王都にほど近い「城門」青蘭の陥落は、青薇をも揺るがし、その空気は一気に青葉全体を包みこんだ。
時期に、導かれるままに。
それは、あらがえぬ、時期の波。いや、あらがおうなどと誰が考えただろう。
待っていたのは、この力……期待していたのは、自らが心だと言うのに。
時代の流れは、ついに反皇帝へと大きく流れだしていた。
にわかに町が立ち騒ぐ。
町のあちこちで皇帝軍と賊軍との衝突がおこり、それは沈静するどころか、日ごとに激しさを増した。
生活の場である町中で大きな暴動がおこることはまずない。が、人々が屍を見ないですむ日は、ほとんどというほどなかった。
「な……誰だっ!」
飛んできた石つぶてに男はふり返る。
『花鳥清反〔カチョウセイタン〕』の店内は昼間のくせにやけに薄暗い。閉め切られた戸窓のせいだろうか。
軽やかに澄んだ声は心地よく耳をすべる。
「……それは俺が聞きたいね、泥棒……いや」
惨憺たる光景を、彼は憂いある様子で見下ろした。
「強盗か?」
「……う」
嵐を前にした海を思わせる深く碧い瞳。鋭い殺気を感じた男は思わずあとざする。
反乱が起こってからというもの、青薇の治安は目に見えて悪い。騒ぎに乗じて昼間から金品を奪う、火事場泥棒の輩が増えたからだ。
店主らしい男や奉公人、血の海の中にはまだ若い少女の姿も見られる。
その赤い海には散らばった転覆寸前の布地。……ここの売り物だろうか。
真っすぐに目を向けると、彼は鮮やかに笑った。
「こんなに人を殺したんじゃ……誰だって見逃せないだろう?」と。
色素の薄い黒髪に碧い瞳。振り向いたそこにいた彼は、髪の色こそかろうじてこの国の色だったが、瞳はあきらかに異国の色。芸人風の色合いをもつ鮮やかな服をまとい、ともすれば派手に見えがちなそれを、彼の整った長身がスラリと取りこんでいる。
薄暗い部屋にかすかに差し込む日の光りに、結い上げられた長い黒髪は金色に透けて見え、彼の異国色をより際だてた。
く、口調と瞳が合ってねぇ……ッッ!
男は彼のもつ異様な迫力に動転していた。
「うるせえ、うるせえ! 人を殺したからなんだってんだッ。
この御時世じゃあ大なり小なりこんなことがおこるモンだろッ。俺だけじゃねぇ!」
ピクリ、と彼の耳がかすかに反応を示す。
「なるほど……」
静かな声。
殺気立っていた碧い瞳がにわかに冷める。すると、どういうワケか、彼の異国色もなりをひそめ、その整いすぎた美貌が全面にあらわれた。先刻まではその美貌のことなど、まったく目に入らなかったというのに、だ。
彼は頷き、
「確かにおまえの言うことは嘘じゃあない」
「じゃあ……!」
と、彼のおだやかな反応に、男は見逃してもらえるのではないか……などと都合のいい解釈をする。
しかし。
一瞬消えかけていた異国色がふたたび強烈な印象で浮かび上がる。
「……が、俺はそんな世の中だからって許せるほど、寛容にできちゃあいない」
「ずっりィィィ!」
「悪いな」
鮮やかな笑みを乗せた彼の背から、眩しいほどの陽の光が差しこんだ。
泣く子供の姿ほど、己の過去を呼び起こすモノはない。まるで、その姿は自分だ。
深く碧い母譲りの瞳を悲しげに伏せ、彼は息をつく。
もう見たくない。あんな姿は。
「よお、お二人さん」
「翠連〔スイレン〕……」
『酒桜灯楼』。
衝突が激しくなるにつれ、ここは一層華やいだ。
それは、戦いで傷ついた民のせいばかりではない。
(あんな想いをするのは、俺だけで十分だ)
*** ***
秋も深まり、青薇の西端に位置する森の木々が、鮮やかに紅葉をはじめた頃。
「僕には関係ない……」
と、自分を見上げる動物たちを見下ろし、少年は呟いた。
ふわんと崩れるように優しく笑う。
まだ成長期の彼の身体は細く、頼りなげ。だが、長いしなやかな手足や身軽な体格は、野生動物のもつ力強さだった。
「おまえたちを守ることが、僕の使命なんだから」
それは親ナシの彼が自ら見つけた使命。
何より変えがたいもの。
彼の肩に一羽の猛鳥が舞い降りた。
スリスリと七郎の頬に頭をすりよせる。
「なんだよ、カイ。心配してるのか?」
猛鳥特有の鋭い琥珀の瞳が、少年を気遣うように揺れる。
「大丈夫だよ。俺は今までおまえたちと生きてきた。これからだって、違わないさ」
七郎〔シチヲ〕は天を仰いだ。
木々の木の葉のはざまに映る空は、ひどく曇っている。
雨が来るのかもしれない。
ひどく大人びた顔で思う。
「ひと雨来る前に町に行ってくるよ、戦況を見ておかないとね」
どんよりと曇った雲は、すごい速さで上空を通り過ぎていく。
赤い木の葉が少年の足元に落ちた。
0-2.反目へ。 <・・・ 0-3 ・・・> 0-4.飛翔Tへ。
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