花之段.反目
蓮翔七年。
王都、青薇〔セイラ〕。
町のどこからでも皇城は眺め見れる。
その反り返った瓦屋根や悠然と構えられた門、どっしりと腰を下ろした壮麗な建築物は、あたかも地上を見下ろす天上の神のごとく。
いつの頃からだったろうか。
その姿が嘲弄の種となったのは。 それが、芽を出し成長し、それ以上の嘲弄の種を生むようになったのは。
もう久しいことで、覚えている者もいない。
ただ、彼らは知っていた。ここがすべての根源なのだということを。彼らは深く望んでいた。その根源を絶つ確かな力の持ち主を――。
あるいは……期待していた。自分たちを奮い立たせてくれる、確かな『機会』を。
青薇はまるで不安定な器のように、微妙なバランスで平静のなかに沈んでいた。ただ、ひとつの火種で崩れる。
そんなもろい平静の中に……。
夏の暑さがまだなごりを見せていた。
今は初秋。ようやっと、秋らしい澄んだ虫の音が響きはじめた夜のこと。
「それは……なにか? 俺たちじゃあアテにならない、そう言いたいのか?」
酒場の喧噪が扉をはさんで、遠耳に聞こえた。
『酒桜灯楼〔シュロウトウロウ〕』の酒場の奥。たいていは情婦を連れ込む個室に、それとはあきらかに違う険のこもった、しかし静かな声が響く。
「……そう聞こえましたか? 心外ですね。ただ、――時期〔トキ〕じゃないというだけのことです。……確かに、それに貴方がただけでは心もとない、という意図が入っていない、とは言いませんが」
一応の敬意の体をとる長身の彼に対して、白い長衣をはおった若い男は、訛りのないきれいな発音で答えた。
(希昂〔キコウ〕様も意地が悪い)
と、その場の状況を見守っていた瑞〔ズイ〕は、敬意の体の下でひとりごちた。
あからさまに挑発をふくんだ希昂の声の響きに、普段は愛嬌のある瑞の昔なじみも険悪さをあらわにする。
黒の闘衣のせいか、それもひどく凄みをおびた。
わざわざ恒牙〔コウガ〕を逆なでするような、ひねくれた返事を返さなくともよろしいのに。
思い、そしてかの方の性格が脳裏をよぎりあさく瞼を伏せる。
……それは無理な相談か。 「こんのくっそ官吏っ! ――青龍江に突き落とされたいか」
うなる唇から洩れた言葉に、おかしむような驚きの瞳が相手をする。
「簀巻きにして、ですか? それはご免こうむりたいですね。もう、今の季節は泳ぎに適しませんよ」
窓をふるわせる風に冷気を感じたように、わざと腕をさする。
そして、おだやかな笑み。
すべてを超越したようなその笑みは、なんびとも侵すことをゆるさない。
「とにかく、はやく彼らを仲間に引き入れなさい。すべてはそれから」
若い男のそれとは思えぬ威風をまとい、言い置くと、腰を据えていた椅子から立ち上がった。長衣の上から深く包衣をはおりなおす。
そうはしても、右宰相家の傍系にあたる彼の気品ある面影は外に洩れた。
どこまでも彼は貴人だ。
希昂を見送る二対の目は語る。
しかし、そのおだやかな中にも激しい熱情があるのを、瑞も、また歯ぎしりをたてている恒牙も知っていた。だからこそ、と言うべきか、でなければ下になどついてはいない。
「ったく。好きなこと言ってくれるぜ。俺たちの導師も」
若き官吏が酒場の喧噪に消えたあと。んッ……と恒牙は大きなノビをして、瑞に目をころがした。
その中にはすでにあれほどあった険がない。かわりに、とびっきり人懐っこい柔らかな瞳がある。
「まあね……」
瑞はちいさく肩をすくめる。 彼は変わることがない。
出会った頃とおんなじ、真っすぐな瞳で……いさめてくれた瞳のままで、今もそばにある。
あの時と違うところと言えば、ふたりが偽狼(雇われ兵)と盗賊という敵味方ではなくなったところぐらいか。
ギシ…と恒牙が腰をすえたベッドから、かすかな音。
「仲間にする……ったって、生半可なことじゃあアイツら折れそうにねぇし」
「……確かにね。彼らにとって、この国の存命などあまり関心はないのだろうから」
むしろ、なくなってしまえばいい、そう強く望んでいるのは彼らではないだろうか。
すこし前の自分のように。 女を捨てた自分のように。彼らもまた、子供の心と他国の血を捨てている。
捨てられるものではない…と分かっていながら。
「それでも」と、瑞は予感を口ずさむ。 「そのうち、嫌でも認めねばならない時期〔トキ〕が来る。俺たちとともに戦わなければならない、と否応なしに知る時期が」
「だろうさ。…ヤツらはおまえと同類だから」
瑞の心を見透かすように、恒牙は頷いた。
ふ、と瑞は恒牙を見なおす。
その恒牙の声が、やけに他人ゴトのように聞こえたからだ。
「おまえは?」 「俺? 俺はねぇ……おまえたちのそれとは、またちょっと違うんだ」
ニヤ、と意味深に唇に弧を描く。
時期が来る。
静かな夜が連れて来る。
大きく、変えがたい変化の時期を。
窓の向こうで虫が澄んだ声で鳴いていた。
*** ***
「知ってて、希昂? 左相様までが治敬帝様のご乱心ぶりにサジを投げたんですって。それでも、よくもった方よね」
窓から降りる月の光を浴びながら、了梗衣〔リ コウイ〕は婚約者の玲希昂〔レイ キコウ〕に話しかけた。薄衣だけをまとった彼女の身体を、月明かりがほんのりと色づける。
社交界で顔が広い彼女は、官吏も知らない宮廷の内情によく通じていた。
「なるほど、とうとうね。保身の大事な彼も、このままでは国の破滅と悟ったんでしょう」
べつだん驚いた様子でもなく、おだやかな声がこたえた。
左宰相と言えば、骨張った神経質な顔が特徴の男である。以前より皺のふえた彼を希昂はよく知っていた。
月明かりだけの部屋はひどく薄暗い。窓近くに立っている梗衣の姿はまだ見えるとして、部屋の奥に座る希昂の姿は闇に閉ざされたままだ。
「わたしには分かっててよ? 希昂。貴方が何を企んでいるのかぐらい」
彼の傍らに沿い、梗衣は勝ち誇るようにほほ笑む。
「……好きですね。貴女は」
「あら? 憶測なんかじゃあなくってよ」
「分かってるでしょう?」とばかりに、梗衣は希昂に差し迫った。
貴方がこの傾きかけた国を見捨てられないことを、わたしはよく知っている。
二年前のあの日から。
透きとおる黒の瞳に希昂は微苦笑をこぼす。
真っすぐな瞳は彼女の真っすぐな心を示していた。
真っすぐな感情、真っすぐな信念。我がままさえも真っすぐに。
私が貴女にひかれるのは、こんな真っすぐなところなのかもしれない。
「ほんとに好き者ですね、貴女は」
「……それだから、貴方は人に解されないのですわ」
自分にまで隠し立てする婚約者に、梗衣は苛立った声を上げる。
どこまでも折れ曲がっているのですわ、この愛すべき婚約者殿はっ。
「今夜は……」
そんな彼女を知ってか、知らずか。希昂は彼女の寒そうな肩に腕をのばし、引きよせる。
「今夜はひどく静かですね」 その声はわずかにかすれて響いた。
時期は、もうすぐ。
0-1.斜陽へ。 <・・・ 0-2 ・・・> 0-3.火種へ。
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