3-7.こころと手紙と


 朝。
 榛比が起きたら、春陽はいなかった。
 枕元に手紙があって、元・刺客はポツリと唸った。
「あの、バカ」
 手紙の文面は、至極簡単なモノだった。
 まず、一行目はこう。
『 生きて帰ります。 』
 これは、まあいい。
 そして、二行目。
『 心配だったら、助けに来てもいいわよ。 』
 ……どういう意味だよ。
 最後は、「春陽」という元・女官の署名入り。
「 ――― 」
 しばらく、その手紙を眺めていた榛比は床際に打ち捨てた。
「ふん、バカらしい……」
 横になったまま、目を閉じる。
 白みゆく空と冷えこんでくる空気を、敏感に感じとる。
 感覚が知らない間に研ぎ澄まされ、冴えていった。

「ああっ! くそっ」
 毒づく。
 むくり、と上体を起こすと、彼女の手の内だと分かりながら忌々しく旅支度を整えた。


*** ***


 身支度を整えて、仮宿を出ようとした榛比に里の子どもがやってきた。
 里長の孫息子で、瑞果とは年齢が近いので親しいらしい。
 その少年が、榛比を見ると少し驚いた。
「出て行くの?」
 絶望をのせた声に、榛比は片眉を上げた。
「そうだ、と言ったら?」
「……困る。すっごく困る!」
 少年は必死になって駆け寄り、人を寄せつけない旅の男に何とかしてもらおうと一枚の紙を見せた。

「瑞果が、一人で「虎北」に向かったんだ」

「 ……… 」
 榛比は手紙を見て、「どいつもこいつも」と低く悪態をつく。
「え?」
 と、聞き取れなかった男の言葉に少年は首を傾げて、ある事実〔こと〕に気がついた。
「もう一人の、お姉さんは?」
「ああ、生きて帰るとか書き残して「虎北」に行った。俺は二人も面倒見切れないから、そっちの小娘〔ガキ〕はおまえたちで何とかするんだな」
「 そんな! 」
 少年は哀れなほどに青くなり、途方に暮れる。
「……そう、悲観することもないだろうが」
 何しろ、向こうには春陽がいる。
 彼女が、あの少女を見殺しにするとは考えにくい。
 とは言え、それをこの里の少年に伝えるほど榛比はお人よしではなかった。
(ただ、頼られても厄介だ――)
 呆然と立ち尽くす少年の横を立ち過ぎると、「助けに行くのなら、早いほうがいいだろう」とだけ教えた。
 昨夜の空とは対照的な曇天から、白い雪が降りはじめている。
 ハッ、と顔を上げると、里長の孫息子である夏朱〔カシュー〕は慌てて仮宿を飛び出して行った。


*** ***


『 さようなら。 』
 たどたどしい字で書いたのは、短い一言だった。

 まだ、父・樹琳が生きていた頃里長の孫息子に見せてもらったぶ厚い本……その中には、いろいろな字が並べられ解説が付け加えられていると聞いた。
 父親が賊に殺されてから、瑞果一人での住まいでは何かと物騒だということで里で一番の広さを持つ里長の屋敷に厄介になっていた。
 だから、その本を拝借するのは簡単だった。
 「別れの言葉」と、夏朱が指差したトコロを探して書き写す。
 識字能力が高いとは言えなかったが……字を書くのは初めてではない。読める程度には仕上がってホッとする。
 みんなに何も言わずに出ていくのは、気が引けた。けれども、決意を言って引き止められるのは目に見えているし、何より時間がない。
「ごめんなさい、みんな。ごめんね、父さん」
 月山に降りはじめた粉雪が、瑞果の頬で溶けた。
 次第に降りを激しくしながら、雪は駆ける少女の足跡を綺麗に消していった。



六.ただ 一夜〔ひとよ〕へ。 <・・・ 3-7 ・・・> 八.根城にてへ。

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