3-6.ただ 一夜〔ひとよ〕


 春陽と榛比の仮宿の前でウロウロとしていた不審人物は家人の帰りに安堵した表情をして、「松長さま?」と、彼らと一緒にやってきた里長に首を傾げた。

 春陽は、そんな瑞果に決定事項を告げる。
「ごめんなさい、瑞果。ちょっと事情が変わったのよ」
「 え? 」
 最初、何を言われているのか理解できなかった。
 瑞果は春陽と里長を交互に見て、次第に脳の回転が加速する。
 みるみると表情を強張らせる。
 俯〔うつむ〕いた少女の口は、わなないて……しぼりだすような声が震えて聞こえた。

「 ヤダ 」

 一言、口にする。
「……戻ってきたら、また教えるから」
 春陽の言葉に、瑞果はぶんぶんと駄々をこねる子どものように首をふる。
「そんなんじゃない。ひどいよ、先生」
 知ってるくせに、と垂れさがった前髪の奥から睨み上げる瞳からハラリと涙が光る。
「わたしがしたいことを、――盗〔と〕るの?」

「 そうよ 」

 春陽は悪びれもせずにそれを肯定した。
 事実、彼女がこれを決めた時、真っ先に考えたのがこの少女のことだった。
「あなたに 復讐 なんてしてほしくない。わたしの教えた力でなんて なおさら だわ」
 その言い方に、瑞果は我慢できなかった。
「だったらいい! 教えてくれなくても――」
 ドン、と自分の腕を掴んでいた春陽の手を突き放すと少女は睨んだ。
「先生には分からないんだっ。誰かを殺したいほど憎む気持ちなんて……っ」
 真っ赤になった顔を上げて、瑞果はハッとする。
「 ―――瑞果 」
 見たこともない、微笑だった。
 憎しみとも、悲しみとも。
 喜びとも、怒りとも言えない。
 なのに、そこには確かな 経験 が息づいていた。
「人を殺したいほどの憎しみ、ね? ……知っているわ」
 と、若い彼女は言った。
 嘘よ。
 と、叫びたくて叫べなかった。

「 ………ッ 」

 冷たい風が、表層の粉雪を舞い上げる。
 春陽の長い黒髪もなびいた。まっすぐに少女を見つめてくる。
「 だからこそ―― 」
 その瞳から逃れるように唇を噛むと、瑞果は背を向けて走り去った。
 少女の小さな背中を見守って、春陽はポツリと願った。

「 だからこそ。あなたには、知ってほしくないのよ……この 重み を 」


*** ***


 空がよく晴れた夜は、久しぶりだった。
 見上げて、風が髪を持っていこうとするのを手で制する。

「 春陽 」

 と、彼の声に呼ばれてふり返った。
「ハルヒ?」
 仮宿の外で遠い昔のことを思い出していた春陽は、泣きたい気分になった。
 彼に言えば、きっと笑うようなこと。
 あの冷たくなった重みは忘れない。
 土を手で掘った時の感触も、指に落ちた涙の温度も、自分にかかった消せない血の色も忘れない……それでも、いいと本気で思えたのは、たぶんこの人に会ってからだ。
 おじいさんの目にひどく似ていた。
 優しいから、わざと人を寄せつけない。そんなところまで、似ている。
 でも――本当は、全然ちがうんだけど。
 春陽は、決しておじいさんを 好き ではなかった。……いや、彼を「師」と慕った時もあるいはあった。が、現実を突きつけられた時、露と消える程度の感情だ。
 なのに、榛比の目を見た瞬間から恋焦がれていた。
 どうして?
 分からない。でも、――。

「 好きよ、榛比 」

 にっこりと、泣かずに春陽は笑う。
 凶暴なまでに不器用な、あなたの生き方が好きだから。

 月明かりに照らされた殺気をはらんだ眼差しが、今は彼女をとらえている。
 よく分からない内に、春陽は抱かれていた。
「 んん 」
 と、思わず喘〔あえ〕ぐ。
 冷たい外気と一緒に、首筋に彼の息がかかる。
「――おまえが欲しい」
「え、えぇ?」
 と、その腕に抱かれながらびっくりした。
 くぐもって低く囁かれた言葉は、まるで初めての受諾の答えではなかったか?
「ッ……」
 確信したくて視線を絡ませたら、乱暴に睨まれ、唇を奪われる。

「 泣けばいい 」

 外から仮宿に移り、春陽の背中下方にある刀傷に唇を落としていた榛比が誘うように言った。
 背後から抱きすくめる彼の指が、乳房の下にある片割れをなぞる。
「この傷が消えても、俺はおまえと共にいる」
「 ッ 」
 泣けとばかりの熱に涙がこぼれた。
 自然に身体が反応する。
 とめどなく、溢れる慟哭〔どうこく〕。
 それは、ずっと堰〔せ〕きとめていた何か。
 ようやく満たされた 実感 だった。

「――ねえ」

 泣きやんだ春陽が、ただ抱きとめていた榛比をおかしそうに潤んだ瞳で仰いだ。
「 諦めたの? 」
「ちがうな」
 と、不本意ながら榛比は告げるしかなかった。
「俺にはお前しかいない。だから、……認めたんだ」
「何を?」
 むすっ、と腹立たしいとそっぽを向く。
「 一生涯の女 だと」
 だが。
 本当は、ずっと認めていた。
 ただ口にしなかったのは、認めたくなかったからだ。
 こんなにも、心を許してしまうことを。
 この女のそばでは、無防備に眠ることもできる……そんなことは、本当は知りたくなかった。
 元・刺客にとっては、まったくの誤算だったのだ――しかし。
「 わたしが? 」
 すり寄る元・女官が幸せそうに笑ったから……少し、彼も笑った。



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