2-0-2.記憶の中の星の数



 途端に、矢倉の下に人の気配を感じた。
「榛比、食事よ」
 コトリ、と握り飯を二つ盛った皿を彼の前に置く。
 「大麗〔タイレイ〕」と呼ばれる彼女は、この集落のリーダー的な存在だった。
「病み上がりのあなたにこんなことをさせて悪いわね」
「………」
 榛比はチラリ、と梯子から台の上に顔を覗かせている大麗をうかがって、無言で皿の上の握り飯を一つ手にした。
 榛比からすれば、女性の圧倒的に多いこの集団の中で食事をするよりは……この見張り台で一人で食べる方がよほど気が楽だった。もちろん、大麗が言わんとしていることは食事のことばかりではないだろうが。
 彼女たちが騙し、身包みを剥いだ役人一行に剣をふるった記憶はまだ新しい。
 しかし、ずっと昔から自分はこういう仕事を生業にしていたように思うので、違和感はなかった。人を傷つけることに一抹の躊躇いもない。生きるためには当然のことだとさえ、割り切れる。ただ――殺してもよかったのに、あとひとつ力を加えることができなかったのは何故だろうか。
(失った記憶の中に、引っ掛かっているのかもしれない――)
 そう思って、息をつく。
 記憶がないこと自体は別段どうでもいいのだが、仕事に差し障りがあるのでは厄介だ。

(………)

「どうしたの?」
 急に立ちあがった愛想のない彼に、大麗が訊く。
 榛比はぐるりと辺りを見渡して、「侵入者だ」と低く答え、大麗が反応するよりも早く剣を握り替えてそこから飛んだ。
「 榛比! 」
 大麗が見張り台から乗り出して眼下を確認した時には、すでに彼の姿は消えていた。
「早い! まさか……侵入者だって?」
 口ずさみ、大麗はまずいと急いで梯子を下りた。
 薬の効力は強力だが、自分たちの目のないところで接触されるのは危険だった。記憶がなくとも、あの腕の立つ男は警戒心が強く、まだ誰にも心を許さない。
 だからこそ、身内に引きずりこめばこれ以上の戦力はなかった。
 女性ばかりの集団の中では貴重な子種になる。

(そう、子種だ――)
 と、大麗は自らの考えに満足して、うっそりと微笑んだ。


*** ***


 気配を消すのは、互いに手馴れたものだった。
 そして、互いに気づかれていることに気づいていた。女の背中に剣を突きつけ、問う。
「女、名は?」
 彼女が答える前から、おおよその見当はついていたが……浮かぶ記憶の中の彼女の姿が幽霊のように朧〔おぼろ〕げで、気味が悪くて仕方がない。
 隙のないその体が榛比の剣の切っ先からスイッと離れ、翻る。
「私の名前――忘れてしまった?」
 俯いた彼女は、瞼を伏せて泣いているようにも見えた。
 が。
 それは、見間違いだった。開いた目は強く輝いて、翳った月明かりの下で彼をまっすぐに映す。
「いいわ、教えてあげる。榛比……わたしの名は」

 ――春陽。

 森の匂いのする風とともに、現実の彼女の姿がくっきりと記憶の中の何かと合わさった。
 長い黒髪、強い目、笑みを浮かべた赤い唇――そして、閃く刀身。
 キィン、と剣を交えた女はたやすく榛比の力を受け止め、受け流しながら弾き返す。

「会いたかった! 榛比」

「――…ッ」
 会心の笑みで勝ち誇り、榛比は飛び退る。
 確かに以前にもこんなことがあったような気がする。そうして、やはり彼女の 柔軟な強さ と 友好的な態度 に戸惑った。
( 一体、何者だ? )
 榛比が混乱するのと同時ににわかに屋敷の中が騒がしくなり、そこかしこから人が明かりを持って外に出てくる。侵入者の情報が大麗によって、伝わったのだろう。
 春陽は、剣を引くと素早く後ろへ跳躍し、「残念ね」と榛比を見た。
「今日はまだ早かったみたい。でも、すぐに迎えに来るわ。待っててね、榛比」
 そう軽やかに告げると、彼女はアッという間に闇に紛れて姿を消した。
「……迎えに来る?」
 榛比は呟いて、冗談だろうか? と闇を睨んで剣を鞘におさめた。



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T EXT
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