1-6.月の決壊
皇太子・荊和と護衛女官・春陽の婚礼の宵。
婚礼を終えた春陽はさっそく東宮に案内されていた。
初めて顔を合わせて以来、いまだ荊和〔ケイカ〕は一言も口を開かない。
(無口、なのだろうか?)
春陽はそんな感想を浮かべて、ボゥと立ちすくんでいるように見える青年を見上げた。
顔はいい方だ。ほっそりとした女性的な輪郭から透きとおった凛々しさ。
世旻帝と環〔カン〕皇后のいいところを受けついだような息子である。
「 じつは 」
思いのほか、低く落ちついた青年の声だった。
「一つ、貴女には謝らねばならないのです」
やっとしゃべったと思えば、意味の通らない言葉だった。
(一応)花嫁の春陽はいぶかって訊ねた。
「どういう意味ですか? 私、まだ何もされた覚えはございませんが」
「まあ、確かに。私もした記憶はございません」
きっぱりと言って、(一応)花婿兼皇太子は口を閉ざした。
どうやら、口数が少ないのは確からしい。
根気強く、春陽は聞く体勢に入る。
「では、何を謝ると言うのです?」
「ええ。私としても不可抗力ではあったのですが、母上のことで」
皇太子の言葉はひどく回りくどい。
春陽はさらに困惑するしかなかった。
「母上? いえ、私、会った覚えがありませんけど?」
「はい。おそらく、そうでしょう」
また、黙る。
「……あの。荊和殿?」
「つまり、母上は少しノイローゼ気味で、そのせいで最近後宮では事件続きだったのです」
ようやく、要点がつかめてきた。
春陽は安堵に息をつき、次に口を「へ」の字に歪め、そうしたのちになってついに叫んだ。
「って! では、アレは……!」
「 母上の仕業です 」
「 ! 」
さすがはあの皇帝の血をついでいるだけはある。愕然と春陽はそれを確信した。
荊和はにっこり微笑んで、肩をすくめる。
「貴女にはご迷惑をおかけしているようで、申し訳ない」
「……そんなことより、分かっているならどうして何もなさらないんですか!」
荊和はしばらく黙りこんだ。
そして、カラリと笑う。
「父上と母上の痴話喧嘩ですから」
「ち、ちわげんか……?」
くらくら、と目眩がおこる。
(そ、そういう問題かぁぁぁあ!)
「それで、もし! 陛下に何かあったらどうするんですか?」
キッと睨みあげる花嫁に、花婿は少しも動じずニヤリと笑いさえした。
「そういう場合、父上は自分でどうにかします」
「どうにかならなかったら?」
「それが運命でしょう」
少しのためらいもなく、言いきる荊和を春陽は護衛女官として羨ましく見据えた。
*** ***
一方、世旻帝は皇后・環妃と酒をくみかわそうとしていた。
彼はすこぶる上機嫌で、妻が盃にいれてくれた紅色の酒を一気にあおる。
「ようやく親の責任を放棄できる! 茗、おまえも……」
ふと、皇帝は胃から喉へ焼けるような感触を覚えて苦悶〔くもん〕した。
ハッと喉元を押さえる……が、とてもおさまりそうにない。
白い肌のほっそりとした妻を見る。彼女はいつも感情をあまり表に出さない。
「茗……そなたのせいではない。すべて」
しかし、長年つれそってきた夫には彼女が青ざめていることが分かる。
(分からないはずがないではないか……!)
彼はふわりと微笑んだ。
環妃がそのしなやかな腕を伸ばして、倒れそうになる世旻帝をささえた。
「 ……世旻サマ! 」
「 すべて余のせいなのだ……だから」
ほんの少し、うろたえた女の顔を片手で包み、できるだけ不安がらせないように力強く言う。
「そう悲しむでない。愛しい君……」
「………」
腕の中で意識をなくした夫を見つめ、環妃はゆっくりと立ちあがった。
「誰か! 誰かおらぬか」
ほどなく、皇帝付きの衛視が戸口の裏から答えた。
「何事で?」
「世旻様が、倒れました。どうか、医者を……早く!」
戸口から入った衛視があわてて、女官へとことづける。
「どこに行かれます? 皇后陛下」
あきらかな毒物による昏睡状態に、衛視は皇帝の口から毒物を吐かせる応急処置をする。
そうしながら、皇后に不審を抱かないわけがない。この部屋には皇帝と彼女しかいなかったのだから。
環皇后は静かな眼差しで問う男を見た。
「おまえに私を束縛する権限などない」
威圧する。
その言葉通り、衛視が皇后を止めることはできなかった。
*** ***
「――荊和殿。今、私が何を考えているか……お分かりになりますか?」
「……いえ」
「少し安心しているのです」
個室の戸口をススッとずらすと、春陽は荊和をふりかえった。
「……何を?」
「もし……、貴方がもっと守らねばならないような方だったら」
いぶかる皇太子に、春陽はそれ以上答えなかった。かわりに夜の闇に向かって訊く。
「私を殺しに来たの? 榛比」
木立ちがカサカサとゆれた。
「 そうだ 」
帯刀した剣を鞘から引き抜いて刺客は答える。
「おまえを殺した後、奏姫〔ソウキ〕も殺す」
花嫁はおだやかに微笑んだ。
そして。
ダンッ
「 ! 」
自らその剣先に向かって飛んだ。
白い夜着に赤い血があっという間ににじむ。
「 なっ! 」
榛比は彼女の行動に面食らって、さわりなれている血の感触にひどく動揺する。
「榛比!」
春陽が彼の耳元で囁いた。
「ここから私をつれて逃げて」
「〜〜〜〜〜」
「早く……ッ」
と。春陽の意識がなくなった。
榛比は彼女の身体から剣を抜くと、あわてて自分の袖を引き裂いて傷口にまく。
荊和へと視線を向けたが、はたして彼に存在が分かったかどうか。
昏倒〔こんとう〕した春陽を抱えて、榛比は闇へと駆け去った。
ただ一人、残された花婿はというと、立ちすくんで動かなかった。
東宮の彼のところまで、世旻帝の様態が知らされるのはもうすぐ。
そして、榛比と春陽の行方が捜索されるのはもっと夜が深まった頃である。
五.黒い雲へ。 <・・・ 1-6 ・・・> 七.選択する者/八.その後へ。
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