1-7.選択する者
ザザザザザッザッ
皇城の裏手にある雑木林の傾斜まで来ると、榛比は昏倒したまま意識をもどさない春名に焦燥した。
頬をたたき、水を口へとふくませる。
「 おい! 目をさませ! 」
(まさか、この傷で死ぬだろうか?)
人の殺し方には明るい知識をもつ刺客も、その剣創の位置深さは微妙な線であった。
もし、内臓の部分にまで傷がついていたなら、命の保障はできない。
(確かに、殺すつもりだった)
しかし、彼女から剣に向かってくるなど思ってもみなかった。
「まさか、死ぬつもりか! クソッ!」
榛比は憤った。
こんな屈辱を許せるだろうか。
刺客はキッと青ざめた女をにらむ。
「許さないぞ! おまえが死んだら俺は奏姫を殺してやる! 人を殺し続けてやるッ!」
キュッ、と榛比の袖が握られた。
気を失ったままだと思われた春陽は、かなり前に意識を回復させていた。
「……ほ、んとうね?」
やはり、まだ意識は朦朧としているのだろう、彼女の眼差しはトロンとしている。
榛比はようやく答えた女に強気に頷いた。
「ああ。俺にはその生き方しかないからな」
「 ちがう 」
春陽は小さく首をふり、求めた。
「私が「死んだら」殺す……っ、てハナシ。……私が「生きのびれば」やめる……ってこと、でしょう?」
「 ………」
どうしてそうなる? と、榛比の方は不満顔。
「 ……ちがうの? 」
ちがう、と答えたら、そのまま死にそうな横顔だった。
(まさか、これは俺に対する脅迫か?)
しかも、不本意ながら榛比が選べる選択肢はひとつしかなかった。
「いや。やめる」
そう答えるしかない……ここで彼女に死なれたら困る。
非常に困る……。
「もし。おまえが「本当に」生きのびたら、やめてやろうじゃないか」
春陽はその刺客の、複雑そうなしたり顔を見上げ、ほっと顔をゆるませる。
相変わらず傷は熱いし息も苦しいのに、それだけですべて乗りきれるような気分だった。
「 死なない…… 」
あらい息の中、はっきりと彼女は呟いた。
ふたたび傷にうなされはじめた春陽を脇に、榛比は途方に暮れた。
もてあまし気味の感情。
けれど、不快ではないと今はなぜか思える。
*** ***
闇が後宮を覆っていた。
「おまえは私にひとつ、言っていないことがあるんでなくて?」
自室の椅子にゆったりと背中をつけた環妃が、夜中に呼びつけた耿 藍庸〔テキ ランヨウ〕に問うた。
優美な面差しをふと上げて、藍庸は曖昧に首をかしげた。
「さて? それはどのような件ででしょうか?」
「解〔わ〕からないと言うのね?」
環〔カン〕皇后は静かな黒い瞳を見開いて、心の衝動を理性で止めた。
それは止めなければ、この宦官を殺してしまうほどの熱情。
「藍庸、おまえには色々と慰めてもらったわ。けれど、もう私のところへ来ては駄目よ。
おまえは私にあの方を殺させようした……それを私は許せないわ」
「………」
藍庸はまっすぐに泰然と座る皇后を仰いだ。
ピクリとも彼女の表情は崩れない。
「 承知しました 」
「そう。だったらもう下がっていいわ」
抑揚もなく羽毛の扇を持つ白い手は、彼を外へとうながす。
この時、藍庸にはまだ余裕があった。
なぜなら、このように強がっていてもお美しい皇后陛下は不安から決して逃れることができないのだ。
そう。
戸口の外へと出て、藍庸は美しく微笑をたたえた。
( 貴女はすぐに、戻ってくる…… )
この楽観を、藍庸はのちに深く悔いることになる。
環皇后がこの夜、すでに命を絶つ決意をしていたからだ。
椅子に座ったまま、環妃は世旻帝に飲ませた毒の小ビンを見つめた。
「藍庸、それでも感謝はしているのよ……おまえはあの方のお心を教えてくれた」
栓を抜きすてると、クッと喉をのけぞらせる。
冷たい液体がそそがれたと感じてすぐ、胃からせりあがるような熱。
『愛しい君』――
(あの方の……この言葉を素直に信じる心のまま、死ねる)
それだけが、幸せだった。
本当の自分は弱いから、このまま生きていればまた信じられなくなる時がくる――
そうなる前に……。
形のよい口元から一筋の血があふれ、彼女の静かな黒い瞳から涙がひとしずくすべりおちた。
( そして、どうか。世旻様が助かりますように……! )
毒の小ビンを強く握りしめていた皇后の手が、だらりと宙に落ちた。
ポトンとそこから転がったのは、もう何も残っていない……ただの空ビンである。
1-8.その後
美しい環皇后の死に顔を、世旻帝〔セイミンテイ〕は知らない。
「 茗…… 」
意識を回復した時、世旻帝の横たわる寝台のそばには息子の荊和〔ケイカ〕とわずかの女官しかいなかった。
「父上」
息子は病み上がりの父に対して、母の死を告げようとして苦笑いした。
「お気づきですか?」
「うむ。そんな気はしたのだ……彼女に余の言葉は通じんと」
ほんの少し、やつれた顔を歪ませる。
「それでも。母上は笑って逝きました。少しは通じていたんでしょう」
「………」
ならばいい……ふてくされた子供のように世旻帝は顔を背けて呟く。
しばらくして、ごろんと寝返りをうつと皇帝はいつもの調子で訊いた。
「して、おまえの方はどうした? 新婚であろうに……」
「………」
荊和が黙りこんだことで、父は理解した。
「ふられたか……チッ」
「チッ、じゃありませんよ。父上」
ほとほと嫌気がさしたように、顔をしかめて荊和は言う。
「アレには私もひとしきり傷ついてみました」
「……おまえは言うことが解かりにくいな。素直に未練があると言えばよいのに」
「未練? ……よくわかりません」
しかし、少し思案して荊和は頷いた。
「そうですね。じゃあ、手配書でも出しておきますか……ちょっとは「憂さ晴らし」になるでしょう」
世旻帝はあからさまに顔に嫌悪をあらわした。
「相変わらず陰気な手を使うヤツだな。それでは女の子に嫌われるぞ」
「ほっといてください」
愛想なく背中を向けると、荊和は父に笑って言った。
「それに彼らに手配書は役に立たないでしょう……彼らは「月に棲む獣」です」
ふむと考えたのち、世旻帝は寝床の中で頷いた。
「……なるほど。孤独でなければ獣にならない……か。うまいな。ザブトン一枚!」
「 いりません 」
人差指を立て、嬉々とザブトンをすすめた皇帝に皇太子はつれなく返す。
女官の知らせを聞いた、宮内の者達が集まってくるのはもうすぐだ。
*** ***
澄んだ青空は旅路の始まりにうってつけだった。
「 さて、どこに行きましょうか? 」
男の背中で、いまだ傷の深い女が言った。
「………」
男からすればどこでもいい、という心境である。
「なんで俺が供をしなけりゃならないんだ? くそっ」
「ひどい男……私、重傷なのよ? 一人で旅なんてできるワケないじゃない。
しかもこーんな手配書バラまかれたんじゃ長居もできないし」
ぴらり、と現在清薇で出回っている「花嫁誘拐」の手配書(名前、身なりの特徴入り)を見せる。
さらにさらに男は渋面になった。
「くっそ! 何が「誘拐」だ? 俺はそんな仕事をした覚えはないぞ」
ギョロリと背中の女に向かってにらむ。
「まあまあ、いいじゃない。こういうのも、たまにはいいものよ」
ブツブツと不平をたれる男の広い背中で、女はうっとりとおだやかな空を仰いだ。
風はまだ肌寒いが、それでもあたたかな春の風を運んでくるものだ。
そう。
それはいつものように。
六.月の決壊へ。 <・・・ 1-7/8(幕)
|