1-5.黒い雲


 次の日、春陽はひさかたぶりに世旻帝に呼びだされ、しぶしぶ皇城〔コウジョウ〕へと出向いた。
 呼びだされた理由が、彼女にとってあまりよい話でないことは想像がつく。
 だから。「 荊和〔ケイカ〕とそなたの婚礼の日取りが決まった」
 と、世旻帝の口から気軽そうに言われた時も、ある感情の中で焦燥しつつも納得していた。
「……はあ」
「なんだ? 春陽。そなたも結婚前にはそのように憂鬱になるのか」
 眉をよせながらも皇帝は、ご気楽さを忘れない。
「いやいや、案ずるな。そういうのは「まりっじ・ぶるー」と言ってな。一般的に知られているのだ」
「………」
「そう。いわゆる「期間限定」の流行〔はや〕り病みたいなものだな」
 玉座で腕組みをしつつ、うんうんと頷いてみせる格好は、春陽の輿入れを心待ちにしているようだった。
( 陛下…… )
 この時春陽は、初めて彼が本気なのだと信じた。
 そうして、その信頼をないがしろにできるほど自分には自信がない。
 春陽は静かに頷いた。


「分かりました。では、そのように進めてください」
「おお! そうかそうか。安心した」
 満面に喜色を浮かべる世旻帝に、春陽も口元をゆるめる。
 それが、彼女にしてはめずらしく力のない微笑みだったので、世旻帝はしばらく首をひねっていた。


*** ***


「本当〔まこと〕か?」
 陶器の小ビンを見つめて、環妃〔カン ヒ〕はうっとりと呟いた。
「これで本当に、世旻様の本心を知ることができると?」
「はい、偽りはございません。お美しい皇后陛下」
 優美な宦官〔かんがん〕は手と手を合わせて囁いた。
「その液体をひとしずくふたしずく足らすだけで、それを飲んだ人間は本当のことしか話さなくなります」
「 おお…… 」
 環妃はめずらしく表情をやわらかに崩し、小ビンを胸に抱きしめる。
「これで、あの方のお心が分かる……」

(なんと甘美な響きだろう……!)
 目を閉じると、そのすばらしさに環妃の胸は少女のように高鳴った。



 環皇后の自室を早々に辞した藍庸〔ランヨウ〕は、静かに微笑みをたたえた。
 そうして、脇の庭木に身をひそめている刺客に囁く。
「奏姫〔ソウキ〕はどうした?」
「………」
 彼の反応を意外に思って、藍庸はさらに問う。
「どうした? そんなに例の護衛女官は手強いか?」
「……別に」
 暗闇からようやく返事が返ってきた。
「そうか。まあ、それもしばらくのことだ。彼女が皇太子の妃になってしまえば、やりやすくなる」
「 妃? 」
「そう……世旻帝も奇異なことを考える。よほどその護衛女官を気に入ったか……あるいは、特有のお遊びかもしれんが」
 クスクスと笑いかけて、優美な宦官はほっそりとした指で唇をなでる。

「いや、少々まずいか。のちのち荊和は邪魔になる……そんな腕利きの護衛女官が妃ではやりにくいかもな」

「………」
「 殺すか? 」
 藍庸が誰をさして「殺す」と発したのかは分からない。薄い笑みを浮かべた宦官は、庭木の陰に榛比を残して渡りを通りすぎていった。
 カチャリと闇で剣が鳴る。
 次に庭木の木の葉がゆれた時、人の気配は完全に消えていた……。


*** ***


 榛比が気づいた時、そこは奏姫の寝床である棟の一角だった。
 閉めきられた戸口を見ると、彼は口元にうっすらと笑みを浮かべた。
『 殺すか? 』
 藍庸にそう訊かれた時、彼は反射的に「否」の答えを導いた。

(殺す必要がどこにある?)
 春陽が皇太子の妃となるならば、それに越したことはない。
 むしろ怖いのは、逆だ。
 榛比は夜の闇にとけようとして、止まった。
 春陽が渡りへと出てきたのだ。
 決して、奏姫のせいではなかった。その証拠に今は冬の夜の静けさしかない。
 では、なぜ?

「 榛比? 」

( ! )
 気配を感づかれまいと榛比はその場に身をかがめた。
 春陽の瞳が彼のひそむ木陰へとそそがれると、愕然とする。
(涙、だと?)
 かすかに感じる気配に春陽はしばらく視線をさまよわせていたが、現れる意志がないことを知ると寝室へともどった。
 地面へと手をつくと、いまいましげに榛比は唇をかむ。
「ダメだ……」
 殺すしかない……と榛比は低く呟く。
(俺などを想うより、皇太子を想うほうが幸福だというのに)
 皮肉に唇の端を上げて殺気をおびる。
( 馬鹿な女 )
 ……それが、刺客の感想だった。



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