0-1.病弱皇子


 青々と葉をしげらせた庭園樹の一枝で、少年が息をひそめていた。齢〔よわい〕は十ほどであろうか。
 金の髪に澄んだ青の瞳。英知を感じさせる口元は、幼くて人形のように透明な肌をしている。
 そう太くも頑丈にも見えない枝の無口な態度が、彼の体重を危うく感じさせるに十分だった。
「 今日こそは…… 」

 少年の声がある長年……といってもまだ十年も生きてない彼のことである……の望みを思う。
 そぅと、葉の間から下界を見下ろせば、王宮お抱えの黒騎士姿をした数人が誰かを探しているのか、ウロウロと徘徊していた。
 しかし、すぐとその場所に見切りをつけ、べつの場所へと移っていく。
「よし!」
 今の内だとばかりに、少年は活動を再開する。
 ゆっくりと隣の枝へと乗り移る。……と、さらさらと、さすがに少年の重みが葉をかすかに囁〔ささや〕かせた。

「クゥゥゥ」

「 ! 」
 突然、目の前に姿を現わした黒いものに少年は目を驚かせ、大切なところで指の力が萎〔な〕えてしまった。
 あ、と思った時には遅い。
 落ちる――! と、小さな身体は丸く空中へと放りだされた。まあ、そうなれば引力の赴〔おもむ〕くままに地面へと落ちるのは時間の問題である。
 少年は、今までの長くはない自分の人生の走馬灯を見た……わけはない。少年は夢想家〔ロマンチスト〕ではなく、かなりの現実主義者〔リアリスト〕であった。
(いたいかな? だよね。いたい……やだやだ、ぼく、まだそんなに悪いことしてないのに)
 たかが脱走で死んじゃあ、わりに合わないじゃないかぁーあ!

「 きゃん! 」
 ふわり、と抱き抱えられた優しい感触に、少年はおそるおそると薄く、片目だけ、瞼〔まぶた〕を開けた。
「………」
 地面に叩きつけられるのを救ったのは、どうやらこの目の前の黒い仮面。
 黒騎士である。

「――皇子〔おうじ〕」

 静かに言うと、騎士はポカンと自分を見ている少年へかすかに首を傾〔かし〕げる。
「ルディオン皇子……ですよね?」
 どうやら自信がないらしく、黒騎士は疑問の形で訊いてくる。何しろ、小さな男の子が木から降ってきたのだから、彼とて信じられないのだろう。
「う、うん」
 そうして、落ちた方……ルディオンも言い逃れることを思いつく前に、助かったことに安堵〔あんど〕していた。
「皇子、どうかしたんですか? 変な顔してますよ?」
 ようやく頭が回ってきたルディオンがあからさまに顔をしかめたのに気づいて、黒騎士が見とがめる。
「……べつに」
 ぷぅ、と頬をふくらませて、ルディオンは黒騎士から視線をそらせた。
 脱走……通算十七回目の失敗である。
(…今回はいいところまでいったのにな……そう、あの鳥さえ出てこなきゃさ)

「 ……ゼッタイ、うまくいってたのにな! 」
「それは」
 ――へ!?
「――どうでしょうね」
 ふり仰いだ黒の仮面の端からは、笑うかのような表情がわずかに覗〔のぞ〕いている。騎士が空を仰ぐのに真似て目を向けると、頭上にはあの黒い鳥が弧を描いて飛んでいた。


*** ***


 イフリアの現皇帝イグダリオ・エトル・ゼス・イフリアの第一皇子は極度の虚弱体質で通っている。
 微熱などはいつものこと。遠出をすれば、必ずと言っていいほど三日は寝込んだ。……とはいえ、老年でもうけた彼のほかに皇帝直系の実子はなく、実質その第一皇子であるルディオン・エトル・ゼス・イフリアが、イフリアの次期皇帝にと目されている。

「 メリア 」
 天蓋〔てんがい〕付きの寝台。期待にたがわず、脱走に失敗してから丸一日と寝込んだルディオンは、ふかふかと居心地のよい布団に身を横たえて、仕事を片すふくよかな乳母〔うば〕の背に呼びかけた。
 広い部屋に三つほどある開き窓の一つからは、新鮮な外の空気が流れこんできている。今はおだやかな昼時である。
 昼食をすませた皇子が、外出禁止の退屈しのぎに乳母に話しかけるのは定例のことであった。
「なんですの? ルディオン様」
 寝台のそばに椅子をもってきて、メリアは母のように慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
 このまだ十才という幼い皇子が、メリアには可愛くて仕方ない。
 そう、少々脱走癖があって、生意気なヤンチャだとしても……それは、彼女にとって皇子の天使の容姿にはおよびもしない、微々たることにほかならなかった。

「あのね……」

 乳母の耳に口を近づけて、皇子はこそこそと囁いた。見る間に、メリアの目がまあるく見開かれていく。
「……皇子、そ……れは、どういう心境の変化ですの……?」
 見開いた眼差しのまま、メリアは小さな天使を不審に凝視した。そんな乳母を目の前に、にっこりと無邪気に笑い、皇子は鮮やかに、彼女に芽生えた不審の芽を摘〔つ〕みとってしまう。
「いいから、いいから。ね? メリアからたのんでくれる?」
 言うと、ルディオンは母性をくすぐる子供らしい上目づかいをメリアへと送った。こうなると、乳母メリアも何も返すことができない。
「ええ、心得ましたわ、皇子。……でも、本当によろしいのですわね?」
 あとからの苦情は受け付けないという、毅然〔きぜん〕な母の厳しさを乳母メリアも忘れはしない。いくらわが子のように可愛いとは言っても、この皇子は一国の長となるのだ。

 ルディオンは、スッと背筋を伸ばすとゆっくりと頷いた。
 メリアがほぅと息をつく。
「確かに。……では、本日中に伝えます」
 おだやかな日の恵みが薄いカーテンを通して、乳母と皇子、二人っきりの部屋に満ちていた。



 外の空気を注いでいた窓を閉めると、黒騎士精鋭の帥〔そつ〕ジーザ・ゲル・リュカは扉の声に重々しく答えた。
 しかし、その心中やおだやかではない。……ひどい緊張状態である。
 何故〔なぜ〕、と人に問われれば不本意ではあるが、こう答えるしかないであろう。
 「トラウマだ」と。

 部屋に入ってきたのは、若い黒騎士である。仮面を外したその顔立ちは、端正といっていいだろう。髪は鈍い銅色をしていて、瞳はよく澄んで青い。
 ジーザにとっての救いは、この騎士があの男にそれほど似ていないことである。
 あいつは、木漏れ日を思わせる栗色の髪に、嫌なほどに艶〔つや〕やかな亜麻色の瞳をしている……と。
「アルディ・ディエ・トラドゥーラ、か」
 ジーザと対峙した黒騎士は、空気をはかりかねて曖昧〔あいまい〕に頷〔うなず〕いた。
「リュカ帥卿。私への御用というのを、うかがえ願えますか?」
「そう……だったな」
 どうにもペースを乱されて、ジーザの方も当初の目的を忘れかけていた。
 困ったものである。
「実は上からの達しでな、ルディオン皇子の護衛を頼まれたのだ」
 ふと、アルディはジーザの言葉を聞きとがめた。
「解〔わか〕ります。が、何故、私に?」
 ジーザの方もこれにはある程度の予想をしていたのだろう、困惑顔でさてな、と首を傾げて笑う。
 皇子護衛の話は黒騎士精鋭から申し出て、一度は皇子のひどい拒絶にあいウヤムヤになっていたほどの代物なのだ。
「私にもよく解らん。が、あの皇子直々の指名だそうだ……心当たりはあるか?」
 無論、これは皇子に気に入られる心当たりのことである。
 アルディは帥の問いに、首をひねった。

「いえ、嫌われる心当たりなら……あるんですけどね」
 小さく苦笑いを浮かべる彼に、ジーザは可笑しそうに笑い声を上げた。
「ま、しっかりやるんだな」
 ジーザとアルディの父、アルザス・ディエ・トラドゥーラは学生時代の同級である。その頃の位置関係からジーザはどうにもアルザスに対して強くでれない。
 しかし、アルディへの苦手意識だけはこの瞬間に砕け散り、かわりにもっとも見たい鑑賞対象へと化した。
 なるほど。アルザス好みの顔をするじゃないか。
 旧き級友……司法の裁きを司るトラドゥーラ家の「裁きの天使」アルザスが、アルディをからかう姿が想像しえて、ジーザはひそかにほくそ笑んだのだった。


*** ***


 のちの日の午後。
 天蓋〔てんがい〕付きの寝台の上で、天使の皇子は黒騎士との対面を果たしていた。
「よく、私の名前が解りましたね?」
「ぼく、「皇子」だもん。それくらいは調べればわかる」
「で、私を貴方付きにして、どうなさるおつもりです?」
 淡々とアルディはルディオンに訊ねる。
「べつに。ただ、父上の言葉にしたがったまでだよ」
 皇子の方も淡々と答えた。互いが互いに真意を探り合っている。
 沈黙に再び口火を切ったのは、ルディオンである。
「『本願ヲ遂ゲルナラ、マズハ有能ナ兵ヲツケヨ』ってね」
「なるほど。意に適〔かな〕ってる」
 頷き、有能な兵は微笑んだ。
「ま。貴方が、本願を遂げるにふさわしい方なら兵ともなりましょうが」
「……それ、どういうことさ」
 不満気にルディオンは唇を突きだした。アルディは肩を竦めて答える。
「つまり、外に出たいならそれなりにルディオン皇子にも努力していただきたい……ってことですよ」

「 ……… 」
 むぅぅ……と、その瓢瓢〔ひょうひょう〕と立つ黒騎士を睨みつけると、ルディオンは憎々しげに呟いた。
「ぼくに、強くなれ……って?」
「なかなか頭の回転は悪くないね」
 ツン、と黒騎士から顔を背けると、シッタ、とルディオンは布団から飛びだし仁王立ちになる。
「よーし、わかった! 見とけ、黒騎士! ぼくはやるっていったら、本ッ当ぅにやるからなッ」
 寝台の上で啖呵〔たんか〕を切っている少年は、たしかに病弱とは思えまい。……それにくわえて、皇子にも見えかねたが(←本末転倒)。
 黒騎士は深々と溜息を洩らした。
「はあ、まあ、期待してますよ。皇子」
「――あっ、それと。ぼくの名前はルディでいいからね!」
 思い出したように振り返った少年は、立ち尽くしているアルディをビシッと人差指で指差し、揚々と言いきった。


 まさか、皇子相手に愛称で呼ぶわけにもいくまい。しきりに辞退を願い出る黒騎士に対して、ルディオンが試行錯誤の末、自分もアルディを「アル」と呼ぶから……と提案してきたのは、それからしばらく時間が経ってのことである。
 何が改善策なのかはよくわからない。が、アルディもルディオンを「ルディ様」と様付けで呼ぶことで、了承した。
 「譲歩しないと、何を言い出されるか解らない……」と、そんな不安にかられてのことだ。
 アルちゃんとかアーくん……あるいはアル坊なんてふうに呼び出す時が来るかもしれない……。
「――「ルディ様」……かあ。悪くない」
 この皇子にかぎっては。
「 然様〔さよう〕ですか? 」
 ウットリと天蓋を仰いでいるルディオンを、アルディは何とも言いがたい、複雑な表情で見つめた。

 うらうららかな、それはある昼下がりのこと。波乱の幕開けとなる契約の場面である――。



第一連 fin. ・・・> 第二連へ。

T EXT
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