2‐5.決裂


 朝、寝室に戻った蓮が見たのはもぬけの空の寝台。
 ぬくもりもすでになくなったそこに座って、彼に宛てたような紙切れを見つけてひっくり返してみた。
 そこに書かれていた文面に、目を疑う。
「藍閑と、交渉だと?」
 まさか、と思い、彼女ならやりかねないと笑みが浮かんだ。
 今頃は、すでに国境に達しているか?
 寝室の扉を大きく開け放って、侍女たちを叩き起こす。
「紅を呼べ、国境へ向かう」
「国境?」
 寝ぼけ眼の侍女たちは、赤い目をこすりこすり王を仰いだ。
「玉妃が商人を立会人にして、藍閑王との直接交渉に向かった」

え、えええ!?

 一気に覚醒した侍女たちに、訝〔いぶか〕しく眉を寄せて蓮は「なんだ?」と腕を組んだ。
「そ、そんな。 無茶 です」
「ああ、そうだな。だから、今から援護に向かうつもりだが」
「いえ、そうではなくっ……蓮王さま!」
 言うほど慌ててもいないのか、のんびりと構えている王に侍女たちは焦燥して噛みついた。
「姫さまは、そんなことをできるお体ではないのです。普通のお体では……」
 顔を見合わせて、言うべきかどうか考えあぐねている侍女たちに、剣呑な王の声が訊いた。
「どういう意味だ?」
「姫さま、まだ王に話してなかったんですね……あの、つまり」
「妊娠中、なのですわ。王」
 侍女頭が業を煮やしたとばかりに連絡して、キッと侍女たちを制した。
「ぐずくずしている場合ではありません、こんな不安定な時期に馬に揺られるなんて 問題外 です」

「――妊、娠?」
 蓮王の赤い目に炎が宿って、侍女たちはそれだけでいすくんだ。
「 玉妃め、やってくれたな! 」
 低く呟いて身を翻〔ひるがえ〕すと、そこからすみやかに退出した。


     *** ***


 息をつく。

 落下する玉妃を風のようにやってきて支えた 彼 は、黒髪にオレンジに似た赤の瞳の物静かな王の片腕だった。参謀である彼は、もともとこういう裏の動向に敏感で、情報収集にも長けている。
 王に先んじて、彼女の思惑を把握した彼が選択したのは一行の尾行であり、藍閑の王との接触だった。
(――これでは、蓮になんと報告すればよいのやら)
 どちらにしても、選択に失敗したことに間違いないが……意識を失った妃を腕に抱いて舌打ちする。
「貴女って人は――まったく。あまり無茶をしないでいただきたい」
 こっちの身が持たない、と紅は嘆いて、馬上で呆然としている商人の長二人を叱咤した。
「ちょっと下りてきて、手伝ってください。私には、女性の体はよくわからない。それに――」
 チラリ、と背後のずるがしこい視線を感じて、緊迫する。

「 ちょっと、あちらの相手もしなくては 」

 馬から下りた稜明と沙遥は、意識を失ったままの玉姫を介抱しながらさきほどの屈の者の言葉に戸惑いを隠せなかった。
『もしかしたら……姫は妊娠しているのかもしれません』
 どうして、そう思うのか? と訊けば、落ちる時にお腹をかばいましたから……と明瞭な答えが返ってきたから、二人は蒼〔あお〕くなった。
 自分たちの猜疑心が妊娠初期の母体に無理を強いたのかと思うと、知らなかったとは言え情けない気分になる。
 もちろん、まだ屈の王に対する信頼は浅いが、鳳夏の末姫の真意だけは酌んでいる。
( あの 王 の疑いを晴らすために身を呈するほど、お好きなのだろう )
 と。
 なんと、趣味の悪い。
 青白い顔のまま、意識を失っている玉姫を見下ろしてとりあえずはホッとする。
 目立った出血はなく、呼吸も安定している。
 最悪、流産の危険もあるが、下手に動かすこともはばかれたため、横にして玉の回復を待った。
 ――もし、姫に子どもがいるのだとすれば、それは屈の王との子ども。
「 ……… 」
 二人は黙りこくって、目を見交わすとハァとふかく息を吐きだした。

「明よ、これは屈の王に殺されるかもしれんぞ」
「おお。私も今、そう空恐ろしく感じていたところだ。……覚悟しておかねば、ならんだろう」

 何といっても相手は 略奪の王 だ。
 穏便なはからいは到底期待できない、と嘆きながら「辞世の句でも考えるか」などとやけにのんびりしたことを、思いつめた。



「 屈の王か 」

 と、黄貴が冷ややかに確認するのを紅は敢えて否定しなかった。
 黒髪に赤の瞳という特徴から、屈の人間だというのは一目瞭然だった。しかし、略奪の王の噂は有名であっても悪行ばかりが先行して、その外見については屈の民の特徴くらいしか情報がない。
 だから、屈の民の中でもおだやかな気品のある紅を「王」だと認識しても、おかしくなかった。
 むしろ、蓮を並べたところで紅の方がよっぽど王らしいだろう。
「藍閑の王、今日のところはお引取り願えますか。少々、こちらは取り込んでいるのでね」
「さて、どうしたものか」
 黄貴は思案するフリをして、ほくそ笑んだ。
 相手は王とは言え、単身。多勢に無勢だ。
「そちらの都合も解かるが、こちらもこれだけの者を連れてきているのだ。おいそれと引くこともできかねる」
 屈の王の首を、確実に取れる今の機会を逃すのも惜しい、とばかりに血気盛んな兵どもに鬨〔とき〕の声をしかける。と、怒号のような男の低い声が地面を轟かせた。
「姫が忠告したと、思いますがそれでも?」
「侵略か? 違うな、解放だ」
 藍閑の騎兵が一歩、国境に近づいた瞬間だった。

 ヒュン!

 と、風を切る音とともに地面に突き刺さったのは屈独特のやや太めの弓矢だった。
 狙ったように馬の足元に刺さったそれに、神経質な馬たちは漣〔さざなみ〕のように動揺した。
 ようやく視界に入った影は馬に跨り、鞍に足をかけた器用な格好でクロスボーを構えていた。
 ドドドド、と低く響く馬の足音は、数以上の効果があった。――屈族の騎馬隊と言えば、少数精鋭であり機動力と戦闘能力ではほかのどんな騎馬隊が束になっても制圧することは難しいとされている。
 土煙をあげて、突進してくるその圧倒的な戦列に黄貴はついに苦々しく笑った。
「……今日のところは、引くしかなさそうだな」
 顎で背後の兵へ引くように指示を下すと、自らも身を翻してひらりと騎乗した。
「また、会いましょう。屈の王!」
 ハッ、と馬の腹を蹴り上げると、藍閑の地へと消えていった。
 その背中を見送って、見えなくなるのを見届けると紅は跪〔ひざまず〕いた。
「申し訳ありません、蓮」
「何に対する謝罪だ? 俺の名を騙〔かた〕ったことか、それとも俺に黙って玉妃を泳がせたことか」
 感情のない言葉で蓮は訊くと、ふんと鼻を鳴らして「馬鹿らしい」と悪態をついた。
「どちらもおまえの非ではない。俺の怠慢だ」
 血の色の目をすがめて藍閑の地平線を睨んだ蓮が、吐き捨てるように呟いた。

「それに。俺がやるより、王の役はおまえの方がうまいだろうよ。紅」



4.交渉へ。<・・・5・・・>6.継承へ。

T EXT
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