1‐4.謀略


 玉の平手によって、かすかに赤く腫〔は〕れた左頬を右の手の甲で蓮はさすった。
「一体、なんと言って彼女を興奮させたんですか?」
 宴〔うたげ〕の後の静けさか、もう虫の音も眠ったように物音がしなかった。
「紅か…。無気味に背後から来るな」
「………」
 紅〔コウ〕は法外楽しそうにいる蓮を見て、よほど嬉しいことだったらしいと結論した。
「ま、蓮が楽しいのなら良いのですけど…」

 安堵のような、呆れたような紅のため息に、蓮はふとバルコニーへと出る。
 乾いた快い風が、頬の熱を優しく癒してくれる。空には半月がぽっかりと、雲のはざまから顔をのぞかせていた。
 蓮は初めて、玉に会った時のことを思いだす。
 あの夜は、これほどまでに明るくはなかったが…。
 姉の屍〔しかばね〕を抱きながら、蓮は泣くのではないかと思っていた。なのに、彼女は泣くこともせず、自分の姿を認めたなら精一杯の虚勢まで張ってみせた。両手首の自由を失い、初めての痛みをおぼえた瞬間でさえ、頬を涙に濡らしながら、決して目はそらさなかった。
 潔いまでの黒の眼差し。
 それに、心、奪われた。
 我ながら愚かだと思う。
 他の手荒い輩から守るためとは言え、無理矢理に彼女を抱いた。きっと彼女は自分を赦しはしないだろう。
 たとえ、どんな情を示したとしても。
「………」
 しかし、それなら。

 紅にそれがバレたなら、即座に玉を殺したかもしれないことを蓮は月の夜空に思う。
 ――彼女になら、殺されてもよい。


     *** ***


「なによッ」
 と、思わず声が出てしまった。
「姫?」
 寝室の用意をする侍女が玉の声に反応し、ギョッと顔をしかめて訊いた。
「どうかなされました?」
「い、いいえ! なんでもないのよッ。ホホホ」
 技とらしく高飛車に、片方の手の平を口に添わせて笑う。
 不審げに見定めかねていた侍女であったが、心配するほどのことでもないだろうと結論して、寝室から下がった。
「何かございましたら、隣室におりますので…」
 と、不安をほのめかしてはいたが。
「…蓮〔アイツ〕のせいよッ」
 最近、口癖になった言葉がついて出る。
 玉が宴会の席に出た次の日から、何人という人という人が自らの王を弁護した。どうやら、あの席で玉が蓮を平手打ちにし、罵倒したというのが予想以上の噂となって出回っているらしい。
 しかも、何故か……理由のほとんどは解かっているが……女たちの弁護が多いのだ。
 「贅沢〔ぜいたく〕なこと」……と。時には嫌味の一つも言われたりする。
 侍女たちもまた、しかり。宴会の席から戻った直後に「王を誤解しないで下さい!」と、すがった。
 その前には蓮の近臣、紅から言われていたので、そう驚きはしなかったが。こう、会う女すべてに言われると、流石に変な勘繰りをしてしまうではないか!
「まだ若い王だからって甘くみてたわ、こんなに物凄い女っタラシだったなんて!」
 ボス、と寝台の枕を壁に投げつけ、横たわると玉は天蓋〔てんがい〕を睨〔にら〕みつける。

「女の扱いが慣れているはずだわ、あーんな悪趣味な冗談まで言えるんだから!」
 何にこれほど苛立っているのか、玉自身にも解からなかった。……いや、あり過ぎてわからない。
 相手は父母を殺し、姉姫を自害にまで追いつめた冷酷王。しかも、自分を陵辱した卑劣な男である。
 そのくせ、窟の人間は彼を慕ってはばからないし、あの男には自分以外にも女がいるかもしれないときては…。
 面白くないのは当然ではないか!
 キッと、さらにきつく天蓋を睨むと、ふと夜の闇が覗く窓を見た。
 閉めたと思っていたが、錠が甘かったのか、いつの間にやら開いて、風に揺れている。
 起き上がり近づくと、真下に植えられた木々の影に人影が見えた。
「蓮…?」
 何故そう思ったのか、玉は憎いはずの王の名を口ずさんでいた。
 否応なしに胸が高鳴る。

 しかし、人影は蓮ではなかった。
 奇しくも、今日は満月。物陰に隠れていても身体の輪郭や、多少の色は判るのだ。
「玉姫様……ですね?」
 かすかに聞こえた闇の声は、聞いたことのない男のものだった。
「…貴方は?」
 落胆の色を覆い隠すように、冷たく玉は問いただす。
「藍閑〔ランカン〕の国の第一王位継承者、黄貴〔オウキ〕様の使い、緑〔ロク〕にございます」
 人影は確かな口調で言った。証に、と藍閑の紋に彫られた指環〔ゆびわ〕を玉へと投げる。
「…その藍閑の使いがどうして、鳳夏の玉に会いに来たのです?」
 指環を手の平で転がし、玉は影にいる男へと視線を落とす。
 彼は辺りに神経を磨ぎすませながら、商人を装った姿を玉に現わすと告げた。
「鳳夏が窟に襲われたことを、黄貴様は憂〔うれ〕いでらっしゃいます」
 藍閑の国は鳳夏の隣に位置する国土ともに、鳳夏と同じほどの国力をもつ、人種的にも鳳夏とよく似た国である。この二つの国が対立しなかったのは、一重に面前に清葉という大国があったからに他ならない。
 藍閑と鳳夏が対立したなら、清葉は二つの国を体よく、自らの地として治めてしまうだろうし、また二つが仲良く手を取ろうものならば、全力で潰しにかかろうことは内情をよく知らない者でも簡単に察しのつくところである。
「鳳夏と藍閑は兄弟のような間柄、末姫である玉姫様が窟の王に捕えられていると知ってからは、どうにか助け出そうと模索してらしたのです」

「…で?」
 玉は、この緑という男の話のキナ臭さを、耳ざとく嗅ぎわけた。
「私はあの王から逃れるだけでは満足しませんわよ?」
「はい。察しております。姫」
 明るい黒髪の男は笑うと、続けた。
「これから毎朝、藍閑から使いの鳥を飛ばしますゆえ、まだ機でなければ何もせずに返し、機になれば仕込んであった紙を抜き取っておいて下さい。
 さすれば、この緑が刺客として参りましょう」
 緑の話を聞き終えると、玉は探るように微笑んだ。
「今、清葉は暴動が起きているらしいわね。皇帝が色香に迷ったとか…?」
「さあ? 私は存じかねますが…」
 男は気のない様子で返事をすると、闇にもぐった。
 そうして、夜の闇に満ちた月明りだけがしんしんと降りつもる。
「緑〔あなた〕が知らなくても、主〔オウキ〕は知っているわ。
 とうさまが言ってらしたもの。藍閑の第一王位継承者はいい意味においても、悪い意味においても強欲だと」
 私を助けてどうするつもりなのか……と、玉は可笑しそうにふふん、と鼻をならした。



3.キスへ。<・・・4・・・>5.恋心へ。

T EXT
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