「おはよう廉(れん)君。」 待っていたかのように僕を見つけて、君は満面の笑顔で駆け寄ってくる。
愛らしいその姿を見つけ君の心からの笑顔を見る時、僕はホッとして、それから頬が緩んでくる。 「おはよう香織(かおり)。」 付き合い始めて半年。今日僕たちは2年生に進級する。 「ねぇ、また同じクラスだといいのにね。」 「うん。…きっと同じクラスになっているよ。」 「随分自信たっぷりに言うのね?まるで知っているみたい。」
僕の確信めいた言葉に不思議な顔をする香織の表情が可愛くてそっと耳元に唇を寄せてないしょ話のように小声で話す。 「僕は魔法使いだからわかるんだよ。」 「クスッ…廉君は魔法使いなの?じゃああたしが今考えている事わかる?」 「わかるよ。『廉君大好き』って思っているんだろ?」
僕の言葉に図星といわんばかりに桜色に頬を染める香織。
「…っ!もう、こんな所でっ!人がいるのに…。」 「ん…大丈夫。誰も見ていなかったし。」 「そう言う問題じゃないでしょ?」
困った顔をして周囲を見回す香織にチクリと胸が痛む。 「……ごめん。」
だから謝る言葉もぶっきらぼうで、声も冷たかった気がする。だけど僕には彼女を気遣う余裕は無かったんだ。
彼女は僕と一緒にいることを恥ずかしいと思ったりすることがあるんじゃないか? 僕は…香織にコンプレックスがあるのかもしれない。
香織はクラスでも一番人気のカワイイ子だ。明るくて誰にでも優しくて男女を問わず人気がある。
でも香織はそんな僕を好きだと言ってくれた。 彼女が友達に『どうしてあんな根暗男と?』とか『趣味が悪い』とか色々と言われているらしい事を僕はちゃんと知っている。
お洒落になんて興味は無いし、誰かに好かれる為に自分を変えるなんて、真っ平ごめんだけれど…。 香織に相応しい男として彼女の友達に認めてもらえて彼女が喜んでくれるなら努力は惜しみたくないと思う。
彼のその言葉に何だか一線を引かれたみたいで…胸がズキンと痛んだ。 その後学校まで肩を並べて歩いたけれど、どこか口数も少なくて、廉君は何かを考え込んでいるようだった。 何を考えているんだろう。 もしかして、さっきのキスをあたしが嫌がったと思っているのかな?
イヤだったわけじゃない。ただ、クラスメイトが周りにいるかと思って恥ずかしかっただけなのに… 少し俯き加減で何かを考える時の遠い目をしている廉君の横顔をじっと見つめる。
長い睫毛、すっと通った高い鼻、眼鏡をとるとすごく綺麗な瞳をしていて、結構整ったカッコイイ部類の顔立ちをしている。
クラスメイトたちはあたしが廉君と付き合いだしたことに異議を唱えたりもしたけれど、あたしは全然気にならなかった。 あたしにだけ見せてくれる眼鏡を外した廉君の笑顔があたしは大好きで…。 その笑顔の傍にずっとずっと一緒にいたいと思うの。
どちらかと言うと大人しい印象で目立たないタイプだった廉君。
廉君の言葉や行動にあたしが翻弄されてしまう事も多くなってきた。 日を追うごとに彼への想いは益々募っていく。 そんな自分の気持ちが怖いくらいで、廉君がこの気持ちを受け止めてくれるのか不安になってしまうときがある。
どんどん素敵になっていく廉君。 その綺麗な瞳にはあたしだけを映していて欲しいの。
ずっとあなたに片想いしていたあの頃の気持ちはいつの間にかあたしの中で根雪のようになっていて、その上に更に折り重なる新雪のように、新しいあなたの表情(かお)が『もっと好き』と言う気持ちとなって静かに降り積もっていく。
新しいクラスで新しい顔ぶれであるにもかかわらず、人気のある香織の席はあっという間にクラスメイトで取り囲まれ、僕の隣りの席は瞬く間ににぎやかになった。 それに比べて僕は、相変わらず無口で誰かと会話を交わすことも無く、にぎやかな隣りの席から意識を遠ざけるように窓から校庭を彩る桜並木を眺めてぼんやりと考え事をしていた。
朝の出来事がきっかけで僕は自分を変える決意をしていた。 香織は僕の外見では無く本当の僕自身を…僕の内面を好きになってくれた。 だから君を信じたいと思う。 僕の外見が変わってもきっと君の心は変わらないと…。
だけど逃げるわけには行かない。
いつもと同じように声をかけて僕に振り返った香織はそのまま固まった。 「香織?」 「れ…ん君…どう…して?」 「ん?イメチェンかな。似合う?」
眼鏡を外してコンタクトにして、いつもはボサボサのままにしている髪を手入れすると、僕だって一応それなりにみれる男になることくらいは知っている。
誰だって多少触ればそれなりに見られるようになる。だけどその本質は変わることは無い。 僕の容姿が変わったって僕自身が変わるわけではないのだと、香織ならきっとわかってくれるはずだ。
あなたの視線を独占したいという気持ちが日ごとに強くなっていくあたしは、彼が学校で眼鏡を取ったと言う事実にこんなにも不安になっている。
あなたが変わったことにみんなが驚いていた。 廉君は相変わらず言葉は少なかったけれど、ボサボサではなくサラサラの髪に瓶底では無い真っ直ぐな瞳でみんなを見つめて話していた。
誰もあなたの魅力に気付きませんように… あなたが楽しげに話すのはうれしい事の筈なのに何故だか胸が苦しくて。 あなたの為に笑ってあげなくちゃって思うのに何故だか上手く笑えない。 あなたが素敵になってあたしから離れていくような気がして… あなたがなんだか遠い人に見えてしまって… 寂しくて仕方が無いの
ここはあたしが廉君に恋をした場所。そして二人の恋が始まった場所だ。 この木の下で眠っていた廉君に思わず唇を寄せたときから、あたしたちの恋はゆっくりと静かに動き始めていた。
大きく枝を広げ零れんばかりの淡いピンクの花を咲かせている桜の下まで行くと廉君はあの日と同じように寝そべった。 「香織もおいで…綺麗だよ。」
優しいその声に胸がキュンとなってなんだか泣きたくなってくるのはどうしてだろう。
春の柔らかい陽射しと抜けるような青空が桜の花を一層引き立てている。 「綺麗ね…。」 「うん。ここはお気に入りの場所なんだ。」 「お気に入りって…そう言えば去年ここで見かけたのは入学してそんなに経っていない頃だったわよね。ここには上級生でさえ余り来ないし、知っている人は少ないでしょう?良くこんな場所を知っていたわね。」 「ん…まぁね。でも香織だってあの時ここで寝ている僕を見つけたって事は知っていたんじゃないのか?」 「ううん、あたしのは単なる偶然。…っていうか…。」 「もしかして…迷子になってたとか?」
……図星…です。 眼鏡の無い彼の瞳には複雑な顔をしたあたしが映っていた。
あたしの大好きな廉君の瞳。
眩しいものを見る様に少し細めた瞳で見つめられてぼうっとしていたあたしはその台詞で現実に引き戻された。 「え…なに?」 「いや、もうすぐ僕たちのファーストキスから1年になるなって思って。」 その台詞に、あの日思わず寝ている彼にキスしてしまったことを思い出し、頬が熱くなった。 「…っ、やだ。何を言い出すのよ、いきなり。」 「だって香織に僕のファーストキス奪われちゃったしね。」 「もう…恥ずかしいわよ。どうしてそういう事言うかな?あたしだって初めてだったのよ。でも、気がついたらもう触れていて…自分でも信じられなかったんだから。んもう、この話止めよう?」 「クスクス…わかったよ。でも、僕はあれが現実かどうかさえわからなかったからね。あの時香織がどんな顔していたのかなって気になってさ。」 「…っ!悪趣味。」 「クス…そう?でも見てみたいな。もう一度あのときみたいにしてくれる?ここに寝ているからさ。」 「イヤ。」 「即答?…じゃあ僕がしてあげる。」 「なっ…いいわよ。そんなことしなくても。」 「遠慮しないで、ほらっここに一緒に寝てごらんよ。」 「え…あ、きゃっ!」 いきなり腕を引寄せられ胸に倒れこむようになったあたしを彼はキュッと抱きしめた。 「危ないじゃない、もうっ!」 「あははっ、ごめんごめん。驚いた?でもほら…上見て。」 「う…わぁ…」
先ほどまで見ていた桜と同じ筈なのに見る角度が変わるとこんなにも違って見えるんだろうか。 「すっごい綺麗…。」 「だろ?去年もさ、ここでこうしてずっと桜が散っていくのを見ていたんだ。」 「桜…好きなの?」 「日本人なら誰でも好きなんじゃない?桜ってさ、咲くまでが凄く楽しみで、咲いたら今度は満開になるのが楽しみで、散っていくのが惜しいんだけど、その花吹雪がまた楽しみで…なんだか心が花から離れたくないって言っているみたいじゃないか?」 「あぁ…そういわれればそうね。」
いつの間にかあたしは廉君の腕枕で同じように寝そべって桜を見上げていた。 『心が花から離れたくないって言っているみたいじゃないか?』 まるであたしの気持ちそのものの言葉のようでドキドキと胸が高鳴って、廉君に聞こえてしまいそうだったけれど それでもあたしの心はこの腕の中から離れたくなかった。
その言葉の本当の意味に香織は気付くだろうか。
最初は君を見つめていること、ただそれだけが凄く嬉しかった。 それは言うならば僕らの桜が固い蕾から花へと綻び始めていた時期だったのかもしれない。
君の気持ちを知ってからは少しずつ互いの距離が近付いていく事がとても嬉しくて まるで花が満開になる時を待っているかのように毎日ワクワクしていた。
香織という花から僕はもう離れられないでいる。 僕たちの桜が永遠に散らないようにずっと大切に咲かせていたいと願うのは僕だけじゃないと思っても良いよね?
僕の右腕を枕にして桜に見惚れている香織に視線を向けてポツリと呟く。 上辺しか見ないそんな反応がイヤだったからだよ。そうはっきり言ってやりたかった位だった。
クスッと笑い一瞬だけ僕を見るとすぐに視線を逸らしてしまう香織に何だか二人の心が距離を置いたような気がして急激に不安になる。 「香織…どうしたの?」 僕の突然の行動に驚き大きく見開かれたその瞳は僅かに潤み不安げに揺れている。 「何でもない…」 「何でもないこと無いだろう?…もしかして君は僕が変わった事を良く思っていないの?」 「――っ!そんなこと…」 彼女の一瞬の動揺にその答えを見つけた僕は大きくひとつ溜息をついた。 「…そうなの?」 「…ごめ…あたし…嫌なコなの…見ないで…。」 身体を捩って僕の視線から逃げるように顔を隠し、腕の中から逃げようとする香織を強く抱きしめた。 「…僕は君に相応しくなりたい。香織の隣りにいて誰も文句なんて言えない男になりたいんだ。僕のせいで君が悪く言われるのも不快な思いをしたり傷つくのも見たくは無いんだ。」 「そんな事…誰が何を言ったって関係ないわ。眼鏡を外した本当の廉君の笑顔はあたしだけが知っているって思っていたから。あたしの中ではそのことがいつの間にかとても大切な事になっていて…だから、眼鏡を外した廉君がクラスの女の子と話している事に凄く嫉妬してしまって…。」 哀しげに瞳を閉じた時、薔薇色の頬に硝子の欠片のような綺麗な涙が伝っていったのを頬に添えた指で拭った。 「香織…。」 「ごめんね。あなたが明るくなって、どんどん素敵になっていくのは嬉しい事の筈なのに、あたしから離れていってしまう気がして怖かったの。あたしって嫌なコだよね。…廉君があたしのこと嫌いになったってしょうがな…――っ…」
その言葉を最後まで聞きたくなくて言葉を奪うように唇を重ねた。
君のキスには魔法がかかっているんだ。 「僕がどんなに君が好きか分かるかい?君を護るためなら…君が笑顔でいてくれる為なら僕はどんな事でもするよ。君の事が誰よりも好きなんだ。」 「あたしも…廉君が大好きなの。あなたの瞳にはあたしだけを映して欲しい。我が侭かもしれないけれど…廉君が見つめるのはあたしだけであって欲しいの。」 「僕はいつだって君しか見えていないよ。僕の内面を好きになってくれたのは香織だけだからね。香織が僕のことで不安に思っていたなんて考えてもみなかったよ。不安なのは僕だけだと思っていた。自分の事しか見えていなくて…ごめんよ。」 「ううん、あたしもつまらない嫉妬なんかしてごめんなさい。」 「僕の事なら心配なんて必要ないよ。香織しか目に入らないし…。むしろ心配なのは君の事だよ。僕からなら簡単に君を奪えると思っているヤツが多いのは知っているんだ。そんなヤツが香織にちょっかいでも出したらキレそうだよ。」 「キレるって…廉君が?クスクス…心配しすぎよ。あたしはそんなにモテないわ。それに廉君は心配ないって言うけど今日の廉君を見てファンクラブでも出来たらあたしだって嫉妬でおかしくなっちゃうかもしれないわ。」 「クスッ…それはありえないよ。だって僕は明日からまた瓶底眼鏡の浅井廉に戻るんだから。」 「え?どうして?」 「君以外の他の誰かに好かれたい訳じゃないからね。」 柔らかな頬に触れ、優しくその唇へと気持ちを伝えるキスを贈る。 「言っただろう?君が笑顔でいてくれる為ならどんな事でもするって。」 頬を染めて嬉しそうに微笑む香織の表情がとても幸せそうで…この笑顔が全て僕だけのためなのだと思うと言葉では言い表せないくらい幸福な気持ちに包まれる。
「おはよう廉君。やっぱり眼鏡をかけてきたの?」 「おはよう香織…うん。やっぱりこの方が僕らしいからね。寝癖も復活だよ。」 「クスッ…うん、やっぱりこの方が廉君らしくて好きよ。」 「ありがとう。僕さ、今回の事で香織なら僕がどんな人間でもちゃんと受け入れてくれるってわかって凄く嬉しかったよ。」 「どんな人間でも…?」 「そう、どんな人間でも…僕はちょっと特殊な立場にいるんだよ。だから昨日僕らのクラスが同じだって事も知っていたんだ。」 「あら、廉君は魔法使いじゃなかったの?」 「クスッ…まあね。……香織にだけ僕の秘密を教えてあげるよ。」 笑いながら香織の肩を抱き寄せて、耳元でそっと囁いた…。
「本当だよ。内緒だからね?」 「ぁ…う…うん。…はぁ〜ウソみたい。」 「驚いた?」 「うん…。」 「僕を見る目が変わった?」 「ううん、それはないよ。だって廉君は廉君だもん。」 そう言ってパアッと花が咲いたように微笑む香織を見て、本当に彼女を好きになってよかったと心から思う。
君という花から僕の心は離れられない。 だから僕は美しく咲く君を彩る青空のような存在になりたいんだ。 優しく君を見守り大きく包み込んであげられる存在になりたいんだよ。
柔らかな髪を弄り、一瞬触れるだけのキスを奪う。 「もう…またぁ。通学路ではダメよ。」 「…ごめん…つい。」 「クスクスッ…優等生のくせにこんな所だけ学習能力がないんだから…。」 香織はそう言って少し背伸びすると―――
|
BACK |