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テリトリー 2



 申し訳なさそうに、小水内社長は頭を下げた。

「本当にすみません。当方の都合のために」
「とんでもありません。こればかりは仕方が無いことですし、好条
件で別の事務所をご紹介頂けるのであれば、信頼している社長にお
任せすると父も申しておりました」
「そういって頂けると、嬉しいわ」

 彼女の一身上の都合とかで、事務所をたたむことになったのだと
通知を受けたのは後日のこと。

「じゃあ、古畑先生に、よろしくお伝えくださいね」

 社長が私の為にドアを開けると、外側から見知らぬ人が失礼、と
すべりこんで来て、中に入った途端にうわっ! と声を上げた。

「久しぶりに見たら、えっらいさっぱりしちゃいましたね! 一瞬
修平さんだってわからなかったっすよ!」
「言われ飽きた」

 玄関に背中を向けてラークをふかしていた彼は、椅子に座って別
の椅子をオットマンがわりにして、雑誌を読んでいた。

「トレードマークなのに、どうしたんすか。だってハタチからずっ
と伸ばしてたんでしょ」
「たまたま気分が向いたんだよ。したらさー、すっげえ楽なのな。
毎日ざざーって剃るだけでいいしさ。しかもよ、世間様が俺に優し
くなった。前は私服でホテルに入ろうものなら、ドアマンに帰れこ
の野郎みたいな冷たい目で見られてたんだけどよ」
「だって修平さんって見るからにスケベそうで怪しかったもん
ねー」
「何だと失礼な。つうかまー、ぶっちゃけ俺もそう思うけどな!」

 ぎゃははは、と大声をあげて笑う二人の声を背に、私は事務所を
後にした。
ハタチからって事は十年以上生やしていたのだと指で数えながら。





 カシャカシャと、軽快な金属音が耳に入って私は薄目を開けた。
真っ暗な中で一箇所だけ灯りがともった方に目を向けると、片膝を
立てて座る裸の背中が目に入った。
顔の右から煙が立ち上って、すぐ上の低い天井で行き詰って横に拡
散しているのが、スタンドライトの光でも見て取れる。

「……何、してるんですか」
「悪い、うるさかったな」
「いえ」

 肌掛けを引き寄せて私は半身だけ起き上がって、金属音よりは、
むし暑さのために目が覚めたのだと喉の渇きで理解した。
修平さんが向かっている文机の上に置いたお茶を飲もうと這い寄る
と、机の上にバラバラになった銀色の部品が散らばっていた。
オイルの匂いが鼻をついて、私はそれが分解される前は何であった
のか理解した。

「ジッポですか?」
「そう、手入れ中。定期的に掃除しないと使えなくなるから」

 彼のゴツゴツした手に収まったジッポの器は、ぱっと見で年季が
入っているとわかる程に痛んでいた。
表面はベコベコに歪んでいて、細かいひっかき傷だらけだ。

(こんなになるまで使わなくても、新しいのを買えばいいのに)

 思ったまま口に出すと、彼は文机の引き出しを開けて、ぴかぴか
のジッポが沢山放り込まれた中身を私に示した。

「ジッポって良くもらうんだよ。溜まって邪魔くせーんだ」
「じゃあ、それ捨ててこの中のどれかに替えたらいいのに」
「いいよ別に、手入れすればまだまだ使えるし。貧乏性なんだよ
ねー俺。物を捨てるのが苦手なんだ」

 そう彼は言って、綿棒にクリームをつけて、ジッポの中に丁寧に
塗りこんでいる。

「だからこんな?」
「こんな?」
「その、物が多くて」

 汚い、と言うのは憚られて私は言葉を切った。
不潔な汚さでは無いけれど、この家は異常に物が多くてあっちこっ
ちで溢れかえっている。
最初に目に入った棚をさりげなく観察したら、変な置物とか小石と
か、ガラクタ同然の物体が無造作に転がっていた。
どう見ても、捨てても良さそうな物ばかり。

「はは、だよなー。俺もそう思うんだけど。いざ捨てようと思うと
何となく気がさして、まーいいか場所は有るしと、ついつい物が増
え続ける悪循環。収集癖なのかな、物に愛着が沸いちゃうと駄目な
んだよなー」
「もしかしてあのジーンズも年季入ってます?」
「あれは確か。二十代で買ったんだっけか? ……お前ボロだと思
って馬鹿にしてるだろ、あれは思い切って買ったヴィンテージもの
なんだぞ」

 あの薄汚れて穴が空いたボロ布が? それは意外。
ジッポライターに至っては、高校の修学旅行で沖縄に行った時に買
った米軍の物で、その時点ですでにボロボロだったらしい。
古い物が好きなんだよな、と彼は言って、ロフトの床に置かれたレ
トロなラジオや、現役で使っている文机は、わざわざ実家からもら
って来たのだと教えてくれた。

 意外。
もっと薄情な人だと思ってた。
いかにも現代的なモノトーンの部屋に住んで消費文化を謳歌してそ
うな感じなのに。

 最初にここに来たときに、変わった造りだと感じたこの家は、本
来事務所として貸し出されているのだそうだ。
ペット可で安くて広い所を探したらここしかなかったと、彼は説明
した。
それなのにわざわざ狭いロフトに、古い物をごちゃごちゃと持ち込
んで寝室にしているのは、その方が落ち着くからなんだそうだ。
ガラクタに囲まれて、低い天井のこの空間で過ごす修平さんは、何
だか可愛いなと私はちょっと思ってしまった。

 私は彼の顔を、薄明かりの中で盗み見た。
意外と言えば、これもそう。
シャワーを浴びて出てきた修平さんのすっきり若返った顔を見て、
私はあんた誰!? と叫びそうになった。
まさか私がちくちくして痛いと言ったそれだけで、ご自慢のひげを
剃り落として来るとは思わなかったから、心底驚いた。

「すみません」

 横目で私の視線を追って諒解したのか彼は、こんなのすぐ生える
し別にいいよと、ラークを咥えたままの口を話しにくそうにもぞも
ぞ動かした。

「折角の初めてなんだから、嫌な思いはしたくないでしょ」

 彼はそう言って目の前にジッポの部品をかかげて、真剣な顔つき
で、左右からはめ込んで合体させた。

「それもだけど。やっぱり、私すっごい迷惑かけましたよね」
「うん、正直困ったね」
「ですよね……。冷静になってみたら、自分がこうしたいばっかり
で、全く周りが見えて無かったです。勝手に見込んで押しかけて、
ほんとごめんなさい」

 彼の横で正座して小さくなる。
どう考えても非常識な行動だったと、遅ればせながら私は反省して
いた。
お手入れ完了したジッポを机に置いて、彼はふふーん? と語尾を
上げて、ひっかかる声色で私をからかった。

「随分とおとなしくなっちゃって。もう初エッチ効果が出たの香奈
枝ちゃん。さすがにやったら変わるわよと豪語しただけ有るなあ」
「ちっ、違います。エッチしたからじゃないです。ちょっと気持ち
が落ち着いて、冷静になったから。だからですっ。それに実際して
みたらこんなものかって感じだったし。価値観が変わるほどでも」
「なぬーう?」

 言い訳する私の言葉を唐突にさえぎって、修平さんが心外そうに
声を上げた。

「俺の渾身の、気合を入れた、情熱溢れる献身的なご奉仕を『こん
なもの』とな?」

 失敬な、この恩知らず娘がと彼が、私に向かって唇を尖らせた。

「違いますっ、ビデオだともっと何と言うか、すごかったから。女
優さんが髪振り乱してて卑猥な言葉を叫んでて、ショッキングだっ
たから。現実ではあんなにはならないんだなって思っただけです」
「……いやだわエロビデオ見るなんて、はしたない子ねえ」
「違いますっ、それも違いますっ。勉強しておこうと思って参考ま
でに見ただけなんですっ」

 私は必死になって言い募った。
すると彼はぷーっと噴いて、わかってるよと言いながら、体ごと私
を向いた。

「だから言ったろ、たかがセックスだって。気持ちが伴わないでや
るだけじゃ、こんなもの? って思って当たり前」

 私は正座したまま頷いた。
痛かったけど、でもちょっとは気持ち良かった、けれど。
した後も、劇的に自分が変わったりはしなかった。

「ビデオは大げさだけどさ、その内もっとよくなるよ。でもいきな
りは無理なんだよなー。回数重ねて、香奈枝ちゃんが本当に好きな
奴とやって、それで初めて気持ちよくなれるんじゃない? それと
一緒で、一気に大人になろうとしても無茶だから」
「……はい」

 うなだれて私は、彼の前に首を垂れた。
彼の言うとおりだ、本当に、何を私は焦っていたのだろう。

「修平さん、先生みたいですね」
「性の伝道師と呼んでもいいぞ」

 やだ怪しいです、と私がくすりと笑うと、彼もにまっと白い歯を
見せた。





 愛着を持った物はゴミ同然になっても捨てられなくて、直して大
事に使っちゃう人で。
ブサイクすぎて売れ残ってた犬をついつい衝動買いしちゃうような
人で(と、後で聞いた)

 それなのに、きっとこだわりがあったに違いないハタチから伸ば
していたひげを、いきなり押しかけてきた失礼な小娘のためにあっ
さりと剃れちゃうような、優しい人で。

(色々と、間違ってた。……よね)

 私は雑居ビルを出て、三階の窓を仰いだ。
まともに対峙してみたら、彼は自分が思っていたよりもずっとずっ
と感じのいい人だった。

 間違っていたと言えば、そう。
この人なら後腐れが無いからと、彼に白羽の矢を立ててみたものの。
そんなの、実際してみたらありえないと思った。

 少なくとも、私には無理だ。

 普通の知人にはまず見せない場所を晒したり、触れ合ったり、キ
スをしたりする、そんな行為の後に。
何でも無い顔で元の鞘に相手を戻すなんて、余程器用な人間じゃ無
いと出来ないのでは無いかと思う。

 好き、とは違ったとしても。
何かこう、特別な連帯意識みたいな物が、お互いに湧いて来てしま
うのでは無いだろうか。

 私がそう問いかけると、修平さんは。
それは気のせい、すぐに忘れるだろとそう言った。





「そりゃあ風俗のお姉ちゃんとだって、その場では恋人気分だし
ねー。こうしてるともやっと流されそうになるのはわかるけど」

 修平さんと私は、平行に向かい合って並んで横になっていた。
肘をついた手の平に頭を載せた修平さんは、無意識なのか、つるり
とした顎を指先で撫でていた。

「でもその時だけだと思うよ。一時の気の迷い」
「そういう物なんですか」

 ふーん、と相槌を打つ私を修平さんは見下ろして、自分の真下を
おいでと言ってぽんぽん叩いた。
私が頷いて横ばいでにじり寄ると、素直だよなあと、彼。

「香奈枝ちゃんなら、すぐに彼氏が出来るよ」
「そうでしょうか」
「うん。素直だし、いい子だし。ただちょっと生真面目すぎると思
うけどな」
「生真面目すぎですか? じゃあ直すように頑張ります」

 私が気負いを見せると、そういうとこなんだけどと、修平さんは
枕の上に脱力した。

 こうして一糸纏わぬ同士でくっついて、ひそめた声で親密な会話
を交わして。
それで「もやっと」した気分にならないほうがおかしいのだろう。
あんなに嫌いだった彼なのに、その気持ちが薄れて来たのはそのせ
いなのだろうかと、私は自問した。

 あと一センチもあれば鼻がかする程の近距離で、私は、思ったよ
りも好き系な顔立ちだと、まじまじと眺めた。
はっきりしたエキゾチックな顔立ちなんだけど、ユーモラスな表情
や垂れ目できつさが緩和されていて、親しみが持てる。
そうか、一分の隙も無い人よりも、ちょっとどこかで気の抜けた人
の方が、近寄り易いのかもしれない。

「今まで、修平さんの顔をまともに見たことが無かったです」
「だろうね。汚らわしいおやじが居るわと言いたそうな顔で、横目
で睨んでた」
「すみません」

 私が肯定の意を籠めて謝罪すると、修平さんはまあ当たりだしと、
くくっと肩を揺らした。

「今日から私も人の事は言えなくなりました。不潔仲間ですね」
「んな、大げさな」
「でも修平さんで良かったです、今はそう思います。本当にありが
とうございました」

 そうお礼を口にすると、修平さんは意外そうに瞬きをして、照れた
様に微妙に顔をくしゃりとゆがめた。

「香奈枝ちゃんがピュアすぎて、いけない事をしてる気分」

 修平さんは肌掛けをちょっと持ち上げて、まだ痛む? と聞くの
で私は正直に、良くわかりませんと答えた。
すると彼が。
『こんなもの』で済ませられると俺の沽券に関わるからもう一回し
てみようと真面目くさって誘うので、私は噴出した。

 案外子供じみた事に男の人はこだわるのだなあと思いながら、私
はおとなしく目を閉じて、彼に身を任せた。
ジッポのオイルの匂いがして、何故か胸がきゅっとした。





「あの人、やっと離婚が決まったの。事務所の件が片付いたら、彼
の所に行くわ」
「へー、そりゃあおめでとう」

 ぷかりと煙を吐き出して修平が、じゃあ俺は枕を涙で濡らす事に
しようかなと言うのに、元妻の晴美が嘘おっしゃいと素早く一言。

「かけらも思ってもいないでしょう、このお調子者。……でもあり
がとう。おめでとうと言ってくれるの」
「そりゃー、苦節何年? もう忘れたけど。この俺様からわざわざ
走った程の相手なんだしなー。晴れてお前専用になって、良かった
じゃねえの」

 真ん丸く口を開いて、修平は輪にした煙を上に向かって次々に作
る遊びに専念している。
晴美がその背中に、だからもう辞めてもいいわよと、初めてそう言
った。

「私一人で、放っておけないって思ってくれてたんでしょ。それで、
仕方なく、うちに残ってくれてたんでしょ。わかってたんだけど、
今まで甘えてたのよね。もう修平はどこにでも行っていいのよ」

 修平は何も答えない。
晴美は、言葉を継いだ。

「つくづく馬鹿なお人良しよね。他の男と浮気して別れた女房まで、
見捨てられないんだから」
「そんなんじゃねえよ」
「一度情をかけたら駄目なのよね、あなたって。……ああ。それで
思い出したから、話は変わるけど。修平あなた、古畑先生のお嬢さ
んと寝たでしょ」

 がらりと口調を変えて、晴美は厳しい声で指摘した。

「……ばれた?」
「勿論」
「さすがですわ元奥さん」
「だってあなた、わかりやすいし」
「そうかあ?」

 前に回り込んで、晴美は腕組みして修平を見下ろした。

「大人同士の問題だから余り言いたくないけど。大事な時期なのに
お客さんとの揉めごとは勘弁してよ」
「わかってるよ。なんつうかあれは、不可抗力だったんだよ。それ
こそ放っておけなかったんだよなー、変な野郎に騙されそうでさ」

 はああー、と、修平は頭を抱えて、俺も年かなあとぼやいた。

「俺らしくもなく、自分を大事にしなさいとかくっせえ説教垂れち
ゃったよ。父親にでもなった気分だよ。あーやだやだ。男がそうな
ったらおしまいだ」

 元夫が苦悩するさまを楽しげに眺めながら、晴美はラークの箱を
手に取って、一本咥えて火を点けた。

「限りなく修平らしいじゃない。本当はあなたみたいに情が濃い人
はね、遊び歩くのには向いて無いの。いい加減不良オヤジぶるのは
やめたらどう?」
「やだよ。俺は永遠の少年なの。まだまだ彷徨いたいの」

 なに言ってるんだか気色悪い、と晴美は冷淡に突っ込んで、上を
向いて煙を吐き出しながら。

 あの子ったらあなたの好みど真ん中じゃないのよ。
馬鹿ねえそれに気がつかないのかしらと、心中で呟いた。





 灯りがともった三階の窓から目を逸らして、私は歩き出した。
離婚してもまだ一緒に居るのだから、もしかして社長の事が忘れ
られないのだろうか。

 今日は手の中に握った就職情報誌の、良さそうな所に連絡をした
事を、彼に話してみようかと思ってやめたのだ。
今まで見ようとしなかった新しい世界に、今のテリトリーを出て踏
み出してみようと思っていた。
けれどそれをわざわざ報告するのも憚られる、私があの一回で急に
なれなれしくなっても迷惑だろう。

 失恋でやけになっていた小娘を慰めてくれただけだとわかってい
るから、これまで通りだ。
これまで通り、父の代理で業務連絡をするだけの仲。
それ以上でも、それ以下でも無い。

 ただ。

 事務所を閉めるまでに、彼がもう一度ひげを伸ばしてみてくれる
といいのになあと、ちょっとだけ思っていた。
前は汚らわしく思えてならなかったけど、今はどう感じるのか、そ
れを確認してみたいと。

 もしかして、今度は可愛く思えたりして。
それとも、やっぱり無い方がいいと感じるだろうか。

 それ位なら、いいかな。

 またひげを伸ばして欲しいですって、そう私語を挟む程度なら、
おかしくないだろうか。
その時彼は、どんな顔をするだろうか。
困るだろうか、それともいつもの調子で、さては俺に惚れたな? 
と冗談を言って、軽く受け流すだろうか。

 捨てられない物で溢れ返った部屋で、よれよれの服を着て不細工
な犬を飼っている、どこか憎めない泥臭さを持った彼を思い出すと、
胸の中がぽかりと暖かくなる。

 これが本当に『気の迷い』なのだろうか。
修平さんの言葉にはいちいち頷ける説得力が有った、だからきっと
そうなのだろうけれど、彼だって人間なんだから、必ず正しいとは
限らない。
もしかして、気の迷いじゃ無かったら。

(……どうなんだろう……)

 気の迷いじゃなくても、いいかな。
黙っているならば、それなら構わないよねと私は一人ごちて、帰路
についた。

(終)



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