「気持ちは嬉しいけど、悪いけど。良く知らない子をそういう対象
には見られない、と思う。ごめんね」
友達から付き合うのがパターンなんだと、彼はそう言った。
初対面の相手に、好意を持つのは自分には難しいと。
そう言われて、それはそうだろうなあとあっさり納得している自
分が居た。
解りきっていた答えだし、期待もしてはいなかったし。
ただ、納得出来るのと、それを気持ちよく受け入れられるかどう
かは別問題で。
彼――辻村昌也さん、大学四年生なんだそうだ――の言葉で、胸の
どこかに痛みを覚えて、それから目の奥が熱くなった。
自分が思っていたよりも彼が好きだったみたいだと、私はその時
に知った。
「そうですか、ありがとうございました」
そう言うのが精一杯。
申し訳無さそうにお返しみたいに頭を下げる彼に、私ももう一回頭
を下げて。
それから、もう二度と話す事は無いだろうと思って。
ずっと気になっていたことを、聞いてみることにした。
「あの、変な事聞いてもいいですか」
「……? うん、どうぞ」
「辻村さんは、お寺の人なんですか」
「お寺?」
彼は奇妙な顔をしてから、それから私の疑問の元だった、自分の
香の匂いの説明をしてくれた。
アロマやお香を焚く趣味が有りそうに思えないし、だから私はおう
ちがお線香を使う仕事をしていると、単純な発想を持ったのだ。
「違う違う。うち普通のサラリーマンだし。それは多分匂い袋」
「匂い袋?」
「知らない? 和風の袋みたいなのに入ってて、何か良くわからな
いけど臭うのが詰まってんの。周りにさ、ばばくさい臭いがするっ
て言われるんだよなー」
苦笑しながら彼は、スポーツバッグの目立たない所にぶら下がっ
てる小さな袋を見せてくれた。
男の子には不似合いな、可愛い巾着袋みたいなもの。
親指の爪ほどの大きさのそれを彼が差し出すと、ふわりとあの、懐
かしいみたいな雅な香りが拡がって、私は胸がきゅっとした。
「うちさ、ばあちゃんと住んでるんだよ。で、ばあちゃんがこうい
うの趣味にしててさ。昌也にも作ったよーとか出されると、断れね
えの。嫌がると哀しそうにするからさ。おかしいだろ」
「おかしく無いです」
私は、彼に向かって首を振った。
「うちのおばあちゃんは遠くにいるんだけど、たまに、変なちゃん
ちゃんことかセーターとか作って来るんです。うわっ可愛くないっ
いらないっ! とか思うんだけど。一生懸命作ってくれたおばあち
ゃんに悪くて、冬は着てますよ。おばあちゃん大好きだし」
嫌々でも、おばあちゃんの手作りを断れない彼が、もっと好きに
なったと思った。
失恋した後に好きになってもしょうがないけど。
「こういう事言うと失礼だと思うんだけど、正直に言うと。辻村さ
んはもっと怖い人かと思ってました。だからすごく意外だったけど、
そういうのいいと思う。……生意気ですね、すみません」
それから私はもう一回頭を下げて、彼に別れを告げようとした。
あのさ、と彼が口を開いたのはその時。
「聞いていい? 何でさ、見ただけで好きになれんの。一之瀬さん
がぶっちゃけるなら、俺もちょっとぶっちゃけるけど。そういうの
さ」
彼はしばらく考えて、なるべくきつく思えない言葉を選んでいる
のだろうか。
「うんと、ちょっと適当って言うか、真剣味には欠けるって感じる
って言うか。ごめん、本音はいい加減そうに思っちゃうんだけど」
「適当じゃ、無いです。どうしてそう決められるんですか」
私の語調は強かったかもしれない。
もうどうせ振られてるんだし、いいやと開き直っていたのかもしれ
ない。
私の口は驚くほど滑らかに動いて、言葉を紡いでいた。
「そりゃあ、私は辻村さんの事を良く知らないし。だから、そう思
われちゃうのかもしれないです。でも、じゃあ知ってるって、どう
いうレベルを言うんですか。同じクラスで、口を利かない相手だっ
たら? それは? 知ってるに入るんですか?」
突然の私の剣幕に引いたのだろうか、彼は目を丸くして黙ってい
る。
「き、機会が有るか無いかだけじゃないですか。私とか、辻村さん
にもしかしてこういう事を言った子が居たとしても。それは、辻村
さんの周りに居る機会が無かったから、だからしょうがなくないで
すか。人間って沢山居るんだから、最初から同じ所に居られる確率
の方が低く無いですか」
「……うーん、そうかもな」
「そうなんです。辻村さんを好きになるきっかけをもらえたのは、
すごい事だって思ってます。だから、沢山は望まないけど。せめて
知って欲しいってそう思って。当たり前みたいにそのチャンスをも
らっている人はいいかもしれないけど、私は勇気を出さないと、そ
こにさえも行けないから。だから、それ位には真剣です」
支離滅裂で、良くわからない理屈だと自分でも思ったけど、多少
やけくそ気分が入っていたかもしれない。
でもどうしても、いま言いたいと思った、この先は見知らぬ同士に
戻るのなら今しか無いと思った。
「それを、いい加減だって言われるのは嫌です。辻村さん自身にだ
って、そう言われたくないです。辻村さんの言葉を借りれば、ちょ
っと話しただけでどうしてあなたに解るんですか」
そこまで一気に話して、私は我に返った。
自分からお願いして時間を取ってもらっておきながら、逆ギレして、
きっと何だこの女と思われてる。
そこで口を閉ざして、ひと呼吸置いて。
私は気まずい空気を誤魔化すように、口の両端を吊り上げて努めて
笑みに見せた。
「すみません。私かなり失礼ですね。でも言うだけ言ってすっきり
しちゃいました。こんな勝手な言い分は気にしないでください、こ
れからばったり遭っても気を遣わないでくださいね。じゃあ、話を
聞いて下さってありがとうございました」
そのまま私は頭を下げて、彼に別れを告げた。
間違いなく嫌われただろうと、そう思った。
「んじゃー、告られでもした? その顔は当たりだな」
ずばりと真実に行き当たった友人が、にんまり笑って肘で脇を突
いた。
「いいねー、女子高生かよ」
「そんなんじゃねえって。それに、もう断ったし」
「ほらやっぱり」
迂闊に語るに落ちた自分に舌打ちしそうな心境になりながら昌也
は、首をそちらに伸ばそうとする友人を制した。
「お互い気まずいんだからジロジロ見んな。あれから何ヶ月か経っ
てるけど、あの子目も合わせないし、俺の顔も見たくないんだろう
し」
「じゃあお前が他の車両に移ればいいじゃん」
「やだよ。朝漫画買ってコーヒー飲んで、一番近いのがここだし。
大体どうして俺が変えるんだよ。あっちが変えりゃあいいだろ」
「そりゃそうだ」
同意する友人に気が付かれない様に、昌也はさりげなく七実に視
線をやった。
気がつかれて無いようだとほっとして、それから、ああ、まただよ
と昌也は密かに。
小柄な七実は吊り革に手が届かないのか、いつも電車の中でよろ
よろと揺れている。
たまに棒に掴まれた時や席に座れた時は大丈夫そうだが、それ以外
は大体、オロオロとカバンを握り締めて立っている。
(カバン持ったって駄目なんだけどなー)
毎日遭うわけでは無いけれど、観察している内に、彼女はどうも
鈍臭いタイプみたいだとわかってきた。
この間は、席に座れてほっとしたのか、何かの雑誌を取り出して
読んでいたのだが。
目の前にスーツ姿の妊婦が立ったのに気が付いて。
彼女はしばらく躊躇して、それから丁寧に雑誌を畳んでカバンに仕
舞って。
顔を上げて声を掛けようとしたみたいだ、でもその頃には、隣のお
ばさんが「ここ座りなさいよ」と席を立っていて。
彼女は一人で、あ、という顔をして、気まずそうに雑誌を取り出
してまた読み始めた。
その前は、ぼーっと眠そうな顔で鏡をチェックしていて。
揺れた瞬間にがくっと体が傾いて、後ろの女の人に尻から激突して
謝っていた。
それからしばらく、困った様な顔で俯いていた。
(またよろけてるし)
後ろのオヤジにぶつかって、すみませんと口を動かして頭を下げ
ている。
良く謝る気弱な子みたいだ、そういえばあの時も、何度も何度も謝
っていた。
それなのに。
「そういうタイプには見えねえなー、思い切って告っちゃうみたい
なことは出来なさそうだよな」
まるで見透かした様に、友人が意外そうにそう言った。
「あー、うん。そうかもな」
「それにさ、普通ならあっちが違う車両に行くだろ。隣に出来たじ
ゃん、女性専用っての。あっちの方が空いてるしさ」
「だよなあ。まー、どうでもいいし」
「あ」
あの子こっち見てる、と友人が言って。
反射的に振り返って、昌也は七実とあれ以来初めて、ばっちりと目
が合ってしまった。
途端に慌てて七実が顔を伏せた。
「偶然だろ」
そう言いながら昌也には、ピンで留めて露出した耳が真っ赤にな
っているのが見て取れた。
「照れてる。なーんか遊んで無さそうでかわいーなー」
「そうか? お前女子高生に夢見すぎなんじゃねーの。だからさ、
知らない子だしどうでもいーって」
どうでもいい、のだろうか。
無性に、七実がチョロチョロしているのを見るといらっとする。
電車で毎日、無意識に探している自分にも気が付いている。
普段はおとなしそうなのに。
あの時だけは「あなたにも言われたくない」と人の目を見てきっぱ
りと言い切ったその潔さが意外に思えて、不快感を覚えるどころか
小気味良かった。
その時の、こづくりな顔の中できょろっと開かれた小さめの一重の
瞳が印象的だった。
お寺の人なんですか? と聞かれた時は面食らったものだけれど。
事情を聞いた後に満足そうに微笑んで、おばあちゃん大好きなんで
す、とってもいいですと答えたあたりは、穏やかそうなイメージの
彼女が言いそうな事だと、後で思った。
(……普段は? イメージ?)
良く知りもしないのに何言ってるんだ俺は、と、昌也は自分の決
め付けにおかしくなった。
それからもう一回盗み見て、あー、またよろけてる。
何やってんだあの子は、もっとグイグイ隅っこを確保すりゃあいい
のに遠慮してんじゃねえよと心の中で呟いて、相手に気がつかれな
い内に視線を外した。
彼女の言葉を借りれば、自分も機会をもらったのかもしれない。
あの時に、彼女が共通の話題に嬉しそうに身を乗り出した時に。
確かに、彼女と自分は初めて交差したのでは無かったか。
それで、素直に疑問をぶつけるに足る子だと、感じたのでは無かっ
たか。
真っ赤になって俯いた七実を思い出して。
再び彼女と目が合うかもしれない、自分が密かに見ているその合間
に、彼女も見ていたのかもしれないと、自分がそれを期待している
事を認めないわけには行かなかった。
お互いが盗み合い、平行線だった視線を噛み合わせてから、もう
一度。
最初に自分に目を留めたのはどうしてか、まずはそれを問いかけた
いと思った。
彼女には自分はどう映っているのか聞いてみたいとも、怖いと思わ
れた原因は何なのか教えて欲しいとも、そう思った。
(今更だと、思われるかな?)
それでも今度は、自分の番だろう。
満員電車で自己主張一つ出来ない小さな彼女が出した、大きな勇気
に比べれば、些細な一歩だと昌也は思って。
それから、いつにしようかと、体を揺れに任せながら考えを巡らせ
た。
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