軽い女とはしゃいだ女は嫌いなんだようるせえし、と、彼は電車
でそう言っていた。
知りもしない癖に好きなんですなんて良く言うよな適当じゃねえ?
とも、吐き捨てるように友達に言っていた。
その通りだと思う。
顔も知らない子に、いきなりハイテンションで告白されたって引
くだけよね。
だから、迷惑なんだろうと思うけど、見てるだけなら構わないだろ
う。
毎日同じ電車に乗ってる彼は、一見してモテそうな雰囲気で、だ
からそんな事が良くあるのかもしれない。
すらっと背が高くて、ちょっとウェーブがかかった茶色いショー
トを格好良くセットしていて、いつも大きなスポーツバッグを抱え
ている。
制服を着ていないから、近くの駅の大学生だろうか。
あそこかな、それとも、あそこかな、といくつか候補を挙げてみる
けど、それ以上の情報が無いからわからない。
たまたま友達と一緒に乗っていたその時の会話と、盗み見る風貌
だけが私の知っている「彼」だ。
盗み見情報によると、彼は音楽が好き?
いつも何かの音楽を、ヘッドホンの音量を絞って聞いている。
それから、漫画が好きみたい。
毎週少年誌や青年誌の漫画を小さく畳んで器用に満員電車で読んで
いる。
洋服は、今の男の子って感じかなあ。
ラフなんだけど、ちょっと小物にこだわってるみたい。
時計はじっくり見られないけど、多分Gショックじゃないかと思う。
大学生に見えるけれど、毎日同じ時間に乗ってるって事は、私服の
高校生か専門学校?
それとも、部活で毎朝この時間なのだろうか。
先日の発言でそう思っちゃうのかもしれないけど、少し薄情そう
な感じもする。
女の子よりも自分、面倒な恋愛沙汰よりも、気儘に過ごしていたそ
うな、そんな感じ。
考えすぎかな。
何か、以前に通りすがりに告白されて、嫌な思いをした経験が有
るのかもしれない。
それで、ああいう発言が出たのかもしれない。
スポーツを真剣にやっていて、女の子に割く時間が惜しいってそれ
だけかもしれない。
(でもどちらにしても)
……こんな想像ばかりで毎日じっと見てる子は嫌よね……気持ち
悪いよね……。
(痴漢じゃあ無いけど)
手が、当たってる。
すし詰めぎゅうぎゅうの電車だからしょうがないけど、私と斜め後
ろの誰かの間できっちり挟まれて、手が私のお尻の辺りで止まって
る。
もぞ、と手が動いた。
(いやー!)
気持ち悪い。
普段なるべく周りを見て、女の人とくっついて乗るようにしてい
る。
満員電車の女性は皆同じ考えなのか、何となく女性同士固まる事も
少なくない。
運良く女性に囲まれて乗れた日は、気持ちが落ち着くし、相手もリ
ラックスしているのがわかる。
……私って神経質?
公共の乗り物だし、仕方が無いけど。
この路線に女性専用車両が出来る日が待ち遠しい、痴漢の心配も無
いからゆっくり乗れそう。
男性からしたら差別だって言われちゃうけど、そういう車両が有っ
たら毎日並んで乗っちゃう。
(どうしよう)
わざとらしくカバンでガードするのも勘違いしているみたいだし、
悪いし。
かと言ってこれじゃあ逃げられないし。
相手は、どう思っているんだろう。
私は、お尻から伸びてる腕を辿って、こっそりと横目で相手を探
した。
(あ、格好いいかも)
現金なもので。
この彼ならまだいいかなあと思っちゃうのが不思議なのだけど。
背後で雑誌を読んでいる私と同年代に見えるちょっとイケメン風
の男の子を確認して、私は何となく「良かった」と思ってしまった。
変よね、わかってるけど。
でも、格好いいと採点が甘くなるじゃない!
困ってなさそうだから痴漢じゃないし、無頓着そうだしいいかもし
れないと思うじゃない。
……おかしい?
でも、この手はどけてもらえるといいんだけど。
何となく、気持ちが落ち着かないし。
全く平気なのかなあ、いくらなんでもちょっと無頓着すぎじゃな
い?
澄ました顔で、彼は片手に持った漫画に目を走らせている。
気が付いているのかいないのかわからないけど、さりげなく手を抜
いてくれたら済む話だと思うの。
気配で様子を伺っていたら、彼が手に持ってる漫画の単行本、さ
っきから一ページも進んで無い事に気が付いた。
それから、挟まれた形になっている手。
一回もぞりと動いたきり、全くぴくりともしていないって事にも、
私は気が付いた。
ちら、と思い切って彼の目を見上げると。
ずっと同じページを見るのにも飽きたのか、彼は漫画本に目を落
とすふりをしながら、真上の広告をじっと読んでいた。
それはもう微妙な表情で。
……あはは、おかしい!
だったら手を、さっさとどけたらいいのに。
きっと彼は彼で、無理に引き抜くのに何らかの心理的な躊躇いを覚
えて、かといって動かす事も出来ず、往生しているんだろうと解っ
た。
(どうするんだろう)
朝の通学時間って、ラッシュがひどくて何も出来ない。
だからつまらない何かの観察をしたり、電車の吊り広告を隅から隅
まで眺めたり。
電車の宣伝効果って、間違いなく絶大だと思う。
だってそれしか暇潰しが無いから、毎日覚えるほど見ているもの。
それでも見飽きちゃうと、今度は人間ウォッチングをしちゃったり。
だからこんな事一つにじっくり関わってしまうのだろう。
相手は相手で焦っているのだとわかって、私は余裕が出た。
そうねお互い様だし、相手だって困るだろう。
電車が大きく揺れた瞬間に私が人波のうねりに身を任せてみると、
それに呼応して、出来た隙間から相手が腕を抜いた。
彼が小さく、ほ、と息を吐くのが聞こえた。
あ。
動いて揺れた空気が、ほのかな何かの匂いを運んで来た。
何だろう、コロン……とも違う、懐かしいいい匂い。
お香?
古風なお香と、彼みたいな今風の男の子と言うそのミスマッチさ
と、満員電車の密かな攻防が、忘れられない第一印象だった。
それから何となく目に入るようになって、今に至るのだ。
ある日、彼が私の真横に立った。
私は角の棒に寄りかかって、彼はその斜め前を私を囲う形で。
緊張した。
心臓がバクバクして、音が彼に聞こえるかもしれないと恐れた。
変な汗が出てきて、暑苦しいと思われたらどうしよう。
今日、髪は乱れてないかな、ちゃんとメイク出来てたかな。
昨日うぶ毛の処理を念入りにやっておいて良かった!
でも少しためらいがちに彼を伺うと、彼は。
ヘッドホンから流れる音楽に耳を傾けながら、窓の外の景色を見
ていた。
勿論、私を見返すことも無く。
私みたいに、意識する事も無く。
ああ、そうだろうなあと思った。
彼にとっては、私は見知らぬ乗客なのだ。
今までもそうだし、これからもそうなのだ。
一生彼を想っているなんてありえないし、この車両に乗ってるな
んて事もありえないけれど。
彼の人生と、私の人生は。
この視線みたいに、この先もずっと平行線なのだ。
そう思ったら、無性にたまらなくなった。
そんなの嫌だってそう思って、苦しくなって。
その何とも形容しがたいやるせなさに衝き動かされて、いつもの
駅で降りる彼を追いかけて降りていた。
今思い返しても、一体何が自分に起きたのかと呆れて、恥ずかし
くなる。
「なあ、あの子ってさ、どう見える」
「どうって?」
「おとなしそうとか、元気そうとか」
「……どうだろ」
何、お前あの子気になってんの? と肘を突く友人を軽くはたい
ておいてから、昌也は友人を促した。
「どうって言われても。ぱっと見普通っぽい。はっきり言えなさそ
うなタイプ?」
少し離れた所で、人に埋もれている小柄な制服姿の女の子を観察
しながら、友人が無難に感想を述べた。
「政和女子の制服だよな、あそこ女子高だろ」
「そうなん? お前詳しいな、きもちわりー」
「何だよ、この辺りの学校なんだから制服くらいわかるだろ」
むっと心外そうな顔で友人がそう言って、まあまあ可愛いよな、
と最後に付け加えた。
「あー、まあまあね」
適当に受け答えをしながら、昌也は彼女――一之瀬七実と名乗っ
た高校生――から視線を外した。
突然ですみません、お話が有るので後日時間をくださいといきな
り声を掛けられた時は何かと思った。
放課後待ち合わせて、ずっと見てました好きですと言われて、喜ぶ
よりも困ったと言うのが正直な感想だ。
以前にも一度、同じ事があった。
同じ大学の同級生に声を掛けられて告白されて、その時は決まった
相手が居なかったからOKしたものの。
お互い性格のずれにすぐに気が付いて、それが原因で険悪なまま別
れた。
彼がイメージと違っていてがっかりしたと相手が吹聴していたのを
知ったのは後日の事だ。
勝手だよな、とその時昌也は、相手に呆れた。
イメージなんてものに応えてやる義理は無いし、それが外れたから
と自分に失望されても困る。
面倒臭え、とただ思った。
だからと言ってそれで冷たくあしらうほど、ひどい人間でも無い。
こわばった顔で、つっかえつっかえ告白する女の子に対する礼儀は
ちゃんと果たしたつもりだ。
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